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tootake

銅鐸・銅剣は廃棄物

更新日:4月9日

第270話


そもそも出雲には神話にふさわしい遺跡(文明)がないというが通説でした。ところが、昭和59年(1984)の荒神谷遺跡の発見によってその通説は吹き飛んでしまいました。荒神谷遺跡から、銅剣358本と銅鐸6個、銅矛16本が出土したのです。さらには平成8年(1986)、加茂岩倉遺跡が発見され、39個の銅鐸が出土しました。


驚き喜んだ学者たちはすっかり勘違いをしてしまいます。銅剣・銅鐸が発掘されたということは、出雲に文明があったということではないのです。文明の無いところに、銅剣・銅鐸を持ってきて捨てたというだけのことです。


銅剣・銅鐸された場所は古来より神庭と呼ばれる場所であることから、農道を造るために、とりあえず発掘調査をすることになり、銅剣が出てきたのです。神庭という地名だけがこの辺りの遺跡だったのです。他には、神社も古墳も全くない場所です。


それで学者たちは、大量の銅剣・銅鐸が埋められていたことをどう思ったのでしょう。


・地中奉納説~大地の神にささげるために埋めた。

・地中保管説~普段は埋めて置き祭りの時だけ取り出して使う。

・地中隠匿説~後日使用することを期して一時、埋めた。


埋められていた銅剣・銅鐸は頻繁に使用した形跡があり、制作年代や種類が異なるものを新旧とりまぜて埋めてあり、叩き壊された銅鐸の破片もありました。いわゆるジャンク品です。上記の説はどれも当てはまりません。


銅鐸を祭祀に用いない勢力によって最後に叩き壊されたというのが事実でしょう。奈良県の大神神社の麓からも破壊された銅鐸が出土しています。


257話で書いたようにウガヤフキアエズの一族(呉の勝)は銅剣・銅鐸を使用しない一族だったと思います。


三島、つまり大阪府茨木市の東奈良遺跡では多量の銅鐸が作られていました。三島の大王であった大山祇の三島一族は銅剣・銅鐸を政治的に利用していたと思われます。


ウガヤフキアエズ一族(呉の勝)は銅剣・銅鐸ではなく銅鏡を作ることを促進しました。


また出雲を中心にして四隅突出型墳丘墓とは、方形墳丘墓の四隅が飛び出て特殊な形をした大型墳丘墓のことです。「発見されている四隅突出型墳丘墓は、山陰地方から遠く富山の地まで及んでいる。この古墳の築造は、三世紀に出現したと思われる前方後円墳から遡ること約200年、このような巨大でしかもまことに美しい古墳が作られたことは、出雲を中心として日本海沿岸に根強く一つの権力が存在し続けたことを意味すると考えてよかろう。」

「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」梅原猛著(新潮社 2010年)p21

この原イズモ国は長脛彦こと三毛入野と関係があると思っています。

私は、ウマシマジが全国の銅剣・銅鐸を集めて荒神谷遺跡に埋めたと思っています。

神原神社(かんばらじんじゃ)は島根県雲南市加茂町にある神社で、旧社地にあった古墳から「景初三年」の銘を有する三角縁神獣鏡が出土しています。ここがウマシマジの墓ではないでしょうか。神原神社古墳と松本第1号古墳


島根県(根の国)太田市にある物部神社社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿したという。高天原追放


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。




荒神谷遺跡


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
26 mar
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