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tootake

高槻と邪馬台国

更新日:4月30日

第272話


3世紀前半の文献である魏略に、倭は「自ら太伯の後という」とあります。7世紀の晋書の倭人伝にも「自ら太伯の後というとあり、梁書倭伝にも「倭は太伯の後という」とあります。


太伯とは、呉の始祖とされる人物です。倭人が太伯伝説を持っていることは、倭人=邪馬台国の住人は、呉の後裔であると自称していたことになります。なお、お馴染みの魏志倭人伝には倭人が呉の後裔と称しているとは記載されていませんが、それは魏と呉が対立していたからです。


昔、呉の勝(スグリ)が韓の国から渡ってきて、はじめ紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田の村に着いた、その後、分かれて摂津の国の三島の賀美の太田の村に移ってきて、それが揖保の太田の村に移住して来た。という播磨風土記の記述がまたしても真実味をおびてきます。


ところで三島の賀美とはどこでしょう。

元々、古代に三島郡が存在していましたが、701年(大宝元年)の大宝律令において三島上郡と三島下郡に分けられ、その直後にそれぞれ島上郡・島下郡に改称したとあります。


三島の賀美は三島上郡のことでしょう。賀美(かみ)は上(かみ)です。

賀美は神、カモ(鴨、加茂、賀茂)かもしれませんが、、、

高槻市に島上高校があります。学校名は現在の高槻市付近の旧郡名・島上郡に由来しています。学校所在地は高山右近の高槻城跡の一角で、同じ高槻城跡にかつて島上郡役所も置かれていました。ここの地名は野見町であの能見の宿祢(ノミノスクネ)の出身地です。


近くにある安満遺跡(あまいせき)は、弥生時代の環壕集落の遺跡で三島地方で初めて米作を始めた土地です。居などの建物群のまわりに壕をめぐらせる環壕集落で、集落の南側に用水路を備えた小区画水田が広がっています。また東側と西側には墓地があり、方形周溝墓が100基以上確認されています。


私の通っていた高槻高校は島上高校の近くで、剣道部だった私は島上高校との対戦で女性の部員と対戦しあっさり負けてしまいました。当時の高槻高校は男子校で女子はいなかったので、この時の女子部員との対戦は今でも私の記憶に強く残っています。




※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。




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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 28
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