第11話
魏の使者は本当にヤマトに来たのでしょうか?
倭国では、男子は、大人も子供も、みんな顔や体に入れ墨しているとか、男子は頭に布を巻いて、服は、横幅の広い布を身体に巻き付けているだけで、縫ったりはせず。婦人の場合は、単衣の真ん中に穴を開けて、そこに頭を入れて、身体にまとっている。などの記述が魏志倭人伝にはあります。
ほかの記述も近畿ではあり得ない風俗、風習です。御牧(ミマキ)や御島(ミシマ)の人々の文化水準はもっと高かった筈です。少なくとも崇神王朝の人は優雅な姿形だったと思いたいです。時代はやや下りますが、それをうかがい知れる出土品もあります。
神武天皇の家臣の大久米が五十鈴姫を見初めて会いに来た時、五十鈴姫は、大久米命の顔に刺青があるのを見て驚き、鳥のようだと歌を詠んでいます。
阿米都都(あめつつ) 知杼理麻斯登登(ちどりましとと) 那杼佐祁流斗米(などさけるとめ)これに対し大久米命は次のように返す。
袁登賣爾をとめに 多陀爾阿波牟登ただにあはむと 和加佐祁流斗米わがさけるとめ
媛女に 直に逢わんと 我が黥ける利目
(大意)あなたのことを直接よくみるために、鋭い目つきをしているのです。
これにより五十鈴姫がいたミシマでは、誰も顔に刺青などしていなかったことが分かります。
偉人伝は最初に上陸した九州(つくし)の風習を書いただけと思われます。貫頭衣などもミシマではもうすでにすたれていて平安朝とそれほど違はなかったと思います。
魏志はミマキ、ミシマに来ていなかったのではないかと私が疑う理由です。
しかし私の妄想は加速しました。ヤマトは自国の魏とあまり変わらなかったから、面白くなくて書かなかったのでなかったと。
九州は筑紫(つくし)と呼ばれていたのですが、これはヤマトから見て遥か彼方で、行き尽くした地、つまり「尽くし」→ツクシになったのです。
それにしても私にはどうしても神武天皇を創作した意図が分かりません。
崇神天皇をどうしても初代にしたくなかったのでしょうか?
そしてなぜ筑紫(九州)から東征しなくてはならなかったのでしょうか?
崇神天皇をどうしても初代にしたくなかったのでしょうか?
崇神朝の疫病による大災害、農民の流出、それにともなう大幅な社会改革があった為でしょうか?銅鐸、銅剣の廃棄、神道・神社の創設などによる大幅な社会変革は旧体制の反発が当然あった筈です。しかし記紀(古事記、日本書紀)が書かれたのは、崇神朝よりおよそ500年後の720年ころ、仏教伝来は552年、そんなにも長く御牧入彦は祟られていたのでしょうか?
これからこれらの謎を解いていきたいとおもいます。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
阿刀氏、跡部、舵取 、水戸
『先代旧事本紀』では、饒速日命の孫・味饒田命を祖とすると伝える。
『新撰姓氏録』左京神別阿刀宿禰条逸文によれば、大和国城上郡椿市村(奈良県桜井市金屋)にも阿刀連があったという。
阿刀氏は物部氏(のち石上氏)と同祖伝承を有している。物部守屋の別業があったと伝えられる阿都(のちの河内国渋川郡跡部郷、現在の大阪府八尾市跡部周辺)の地名に基づくとされる。人物の初見が天武天皇元年(672年)であることから、その頃に物部氏から分派したという説がある。
居住地としては山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市周辺)が知られ、上記の様に『新撰姓氏録』には左京、山城国、摂津国、和泉国に居住が見られる。
史書では官人が多い。また、一族から空海(母は阿刀氏)を輩出した。
采女氏(阿刀の支族)と筑波
地方豪族から貢進される采女の統括にあたった伴造氏。「記」神武段に宇摩志麻遅命の後裔として、物部連・穂積臣とともに記され、数多い物部氏族のなかでも代表的なものとして知られている。
跡部神社(八尾市・亀井町)
このあたりの地が河内国・渋川郡・跡部郷に当たります。
祭神:饒速日命
現在の祭神は天照皇大神、阿刀連大神、八王子大神ですが、本来は物部氏の一族である阿刀氏(あと)の祖神の饒速日命を祀ったのが創始と考えられています。
阿刀氏の本拠地の跡部は阿都、阿斗、跡部とも表記され、物部守屋と蘇我連合軍との最後の戦いで多く登場する地名です。
物部守屋の別業があった阿都に退く
大連物部守屋をその阿都の館を攻めた
阿斗桑市に営んで日羅を住まわせる
大和川付替え以前の跡部は、その本流の長瀬川が流れる水陸交通の要衝でした。
饒速日命の降臨に船長、舵取りに、跡部・阿刀の名があり、阿刀氏が大和川の舟運を支配していたものと思われます。
船長には跡部首等祖の天津羽原
梶取には阿刀造等祖の大麻良
平安遷都とともに八尾市から嵯峨野に遷った阿刀神社の祭神は味饒田命です
『日本書紀』第二の一書は天に天津甕星、又の名は天香香背男がいるとしています。
『先代旧事本紀』に見えるニギハヤヒの随行者には「天津○○」が多く、「赤」の文字や浦・占・麻良・原など「ら」の音を含むものが多いという特徴があります。
船長・舵取り 天津羽原・天津麻良・天津真浦・天津赤麻良・天津赤星
五部人 天津麻良・天勇蘇・天津赤占・天津赤星
天香香背男は『日本書紀』本文では星の神とされていますが、ニギハヤヒに随行する舵取り・五部人の天津赤星も星に関係する名です。
水戸の始まり
仲国造 建借間と水戸市飯富
大和朝廷から国家統一のため東国に派遣されてきたのが、建借間命(たけかしまのみこと)でした。 命は軍船を率いて霞ヶ浦に入り、鹿島・行方地方、さらに那珂川流域一帯を切り開いたので、朝廷から那賀(仲)国造に任命されました。那賀国は、当初いまの水戸市飯富付近を根拠としたとみられ、これが水戸の始まりとなりました。
飯富には、この地方で最も古いとされる安戸星古墳がありました(『常陸安戸星古墳』水戸市教育委員会)。残念なことに、発掘調査(1981年)ののち整地され、いまは駐車場になっています。
また飯富には、水戸地方で最も古い神社の一つ大井神社があります。祭神は最初に水戸地方を治めた建借馬(間)命である。
那賀国造について『古事記』には、神武天皇の第一皇子を祖先とする九州の意富臣(おおのおみ)・火君(ひのきみ)・大分君・阿蘇君や道奥(みちのく)の石城国造(いわきこくぞう)と同族であると記されています。
『水戸市史 上巻』も「仲国造の初祖建借間命は、火の国造家から別れた意富臣の一族であり、火の国を中心に根拠をもち、東国に進出したという説が有力である」と記しています。「火の国」とは古代の北九州地方の名称で、のち肥前・肥後に分けられた。水戸の始まりと関連深いのは、肥前、特に今の佐賀県地方です。堀原地区で平成二年から毎年「火の国まつり」を行っているのは、水戸の始まりが九州火の国と関連深いことによります。
愛宕町にある愛宕山古墳は、全長136mにも及ぶ大古墳(国指定)で、那賀国造・建借間命の墳墓(ふんぼ)と伝承されています。その近くにある曝井(さらしい)は、『万葉集』に「那賀郡の曝井の歌」として、次の歌が載っています。 三栗(みつぐり)の 那賀に向かへる 曝井の 絶えず通はむ そこに妻もが
高橋虫麻呂は、『常陸国風土記』の編さんにもたずさわったと推定される万葉歌人です。その『常陸国風土記』には
「泉に縁(よ)りて居(す)める村落の婦女(をみな)、夏の月に集合ひて布を洗ひ、曝し乾せり」と記されています。
古代水戸地方の守護神は、くれふし山(朝房山)を聖山とする神で、鹿島・香取信仰との関係が深かったと考えられます。
結城郡出身の防人は、次のように歌っています。
大君の 命(みこと)にされば 父母を 斎瓮と置きて 参(ま)ゐで来にしを
『常陸国風土記』のほ時臥山説話は、蛇神信仰から甕の神(鹿島・香取神)信仰に移っていたことを物語る説話と考えられます。
藤内神社(祭神・経津主命)の祝詞に「養老五年、朝房山の峰に霊光が輝き、その光が藤内郷にとどまった」とあります。有賀神社(祭神・布津主命、武甕槌命)は、「建借馬命が郡西の要地藤内に鎮斎した」と伝承され、もとは藤内に祀られ、のち現在の有賀に移されました。
水戸の前期古墳と星神社
前期古墳として県北常陸大宮地区には、前方後方墳の富士山4号墳が有りました。五社皇神社裏古墳などと古墳群を形成していました。
水戸市飯富町に有った前方後方墳の安戸星古墳がやはり古墳群を形成していたらしい
茨城の前方後方墳の特徴としては、墳丘長は60m級まで副葬品等は質素、埴輪はないなどです。前方後方墳は前方後円墳に先行して築かれたと云う見方がされてきましたが、星神社古墳の存在がそれを否定する方向に行くのかもしれません。
その他の前方後方墳としては、茨城町野曽にある宝塚古墳です。
安曇磯良も船長
八幡宮御縁起には、「磯良と申すは筑前国鹿の島の明神の御事也。常陸国にては鹿嶋大明神、大和国にては春日大明神、是みな一躰分身、同躰異名にてます」とあり、「琉球神道記・鹿嶋明神事」には、「筑前の鹿の嶋の明神、和州貸すが明神、此、鹿嶋、同磯良の変化也」とある。太占(ふとまに)の聖獣「鹿」と、壱岐・対馬の卜部氏との関係が窺えるが、高良大社(福岡県久留米市御井町)の祭神、高良玉垂命が磯良神だという説もある。確かに玉垂命は芸能の祖神とあるが、磯良というのは、何と謎の多い神。
常陸国の常北町の伝承
古来常陸国の北西の要所で山河にめぐまれ、交易文化の要路として栄えた。太古、天津甕星神、又の名を天香々背男といふ悪神の勢力圏内にあつて暴威をほしいままにしてをつた。天津神の御委任をうけ平定の大任を帯びた武甕槌命、鳥磐?樟船命(石船神)、建葉槌命たちは当地の西部に天降られ、慎重な空陸一体の作戦をねられて香々背男軍に向つたが神出鬼没、極めて巧妙頑強で、大激戦が至るところに展開された。鹿島河原の戦には九死一生の危機に命(みこと)もあはれた程であつた。しかしよく全軍をたてなほされ、当地の甕星族を討伐し、更に甕の原へと追撃に転じ遂に全滅させ、この地に平和郷が建設されたのであつた。大神たちの甚大な功績と勇武を讃へ、後世ふるさとのしづめと武甕槌命を鎮斎した当地は、実に十社に及び、建葉槌命ゆかりの社二社で占めてをる。御神威赫灼と全域を照らし、口碑に文書に敬仰してやまぬものが満ち満ちてゐる。おそらく当国随一であつて、鹿島神宮式年遷宮御用材も伐出してをり、鹿島発祥の地として誇つてをる。
常陸二ノ宮 静神社
静神社は、かって、東国の三守護神として鹿島神宮、香取神宮、静神社として崇拝されてきました。延喜式名神名帳(927年)にも、鹿島神宮などとともに、「名神大」と記され豊臣家から社領として、150石が寄進され、徳川家からも同額の朱印が付されたいます。常陸ニの宮としても古くから信仰を集め、初詣、節分祭、そして神事の「つた舞」「お笹明神」が行われる秋の大祭(11月25日~27日)は、多くの参拝客でにぎわいます。
主祭神は 建葉槌命(武神) 名倭文神(織物の祖神) 相殿神は 手力雄命 高皇産霊命思兼命でもある神門の前には、昔ここが織物の里であったことを示す『常陸国風土記』の碑が建っています。
水戸藩主徳川光圀公が社殿を修造する時に本殿脇の大きな桧の根本から『静神宮印』とほられた銅印がみつかったことを大層よろこび、黒塗りの箱に納めて社宝として神社に蔵したとされています。
静神社境内社
かつて、この地は3つの神社が鎮座し、さらに、7つの寺院がこれを囲んで大きな霊地を形成していた。また、水戸から奥州に通ずる棚倉街道に面し、交通の要地でもあり、門前町、宿場町として、殷賑をきわめていた。現存している下宿、中宿、門前の地名や藤屋、伊勢屋、池下屋などの屋号はこれを物語っている。静を中心に郷名を倭文郷と称したが、起こりは倭文神の神名によるもので、倭文を「シドリ」と読むのは、「常陸風土記」(713年)にある「静織の里」の「シツオリ」の約言でもある。へ
創建は不明であるが国史上、850年以前(文徳実録 「文徳帝嘉祥3年(850年)9月使を遣わして静神社に奉幣せしむ」とある)と推定され、日本書紀(720年)、古語拾遺(807年)にも主祭神 武葉槌命の記載がある。
佐伯神社
茨城県常陸大宮市(旧御前山村)に佐伯神社があり、明治29年に祭神を稲背入彦命・景行天皇・五十河媛から忍日命・道臣命・健日命に変更されている。何故か?
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:タケハニヤスの乱3 ~小人国
:タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇
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