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魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけ!??

更新日:7月18日

第381話~彦、卑弥呼、トヨ


魏志倭人伝に出てくる個人名は3人だけです。

・卑弥呼、卑弥呼の後継ぎとされる卑弥呼の宗女、壱与(イヨ:トヨ)

・魏志倭人伝に出てくる地方長官は基本的にヒコ(卑狗)です


対馬:「始めて一海を度ること千余里にして対海国(対馬)に至る。その大官は卑狗と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。」

一大国:「又、南に一海を渡ること千余里、名は瀚海と曰ふ、一大国に至る。官は亦た卑狗と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。」


「(対海国から)また、南に一海を渡る、千余里、名はカン海という。一大国に至る。官は、亦(対馬と同様)、ヒコウといい、副はヒドゥボリという。」~ヒコウもヒコでしょう。


もちろん、別の名前もあります。

「東行至不彌國百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家」

「南、投馬国に至る。水行二十日なり。官は弥弥と曰ひ、副は弥弥那利と曰ふ。五万余戸ばかり。」~多模は不明ですが、弥弥は耳(ミミ)です。陸耳御笠(くがみみのみかさ)の耳です。

「東南、奴国に至る。百里なり。官は兕馬觚と曰ひ、副は卑奴母離と曰ふ。二万余戸有り。」

兕馬觚はシマコであることは既に述べています。本当のウツシコオの名前はシマコであると思われるのです。浦島子はウツシコオです。 参照:君が代(1)~志賀海神社


地方長官のほぼすべてがヒコ(卑狗=彦)ということは、古代日本(ヤマト=邪馬台国)はヒコ(卑狗=彦)の支配下にあったということです。ヤマト=邪馬台国はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王の支配下にあったとみるべきです。


そして、大阪府茨木市にある奈良地区(私が生まれ育った場所です。)の地名は、天王、玉櫛、五十鈴です。近くには溝咋神社 - Wikipediaがあります。三島の溝杭です。

天王は、スサノオで、玉櫛は卑弥呼、五十鈴はホトタタライスケヨリヒメです。

魏志倭人伝に出てくる個人名は3人も、彦、卑弥呼、壱与(イヨ:トヨ)です。

彦はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。第363話:彦はすべて、ウツシコオです。溝杭神社の三島の溝杭とは河川・海など水上交通の支配者のことです。


ここで新たな疑惑は出てきました。これまで私は、古事記・日本書紀はイカガシコオが残した資料をもとに作成されたものだとしてきました。参照:第116話:古事記・日本書紀とQ資料


しかし、そんな資料はなかったのです。記紀の作者の資料は魏志倭人伝しかなかったのです。そして、この三人をもとに古事記・日本書紀を創作したのです。

三人だけというのは、元々は三人ですが、ウツシコオとウツシコメをモデルに様々な人物を作り上げっていったのです。


例えば、イカガシコオ(伊香色雄命)ウツシコオ(内色許男命)で、イカガシコメはウツシコメ(卑弥呼)です。そういう風に古事記、日本書記を一から作りあげていったと思われます。菟狭津媛彦・菟狭津媛命もそうでしょう。菟は兎道=宇治=内=内里です。


日本書記に出てくる男性は上古の時代に限って言えば、基本的にすべてウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王で女性はすべてウツシコメ(卑弥呼)であるという観点に立って記紀を読み返すとかなりすっきりした風景が見えてきます。この事実!!に気付かなければ、私は延々と○○はウツシコオという記事を書き続けていたでしょう。


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<これまでウツシコオであることが判明した人物>

第374話:牛鹿臣はウツシコオ!     第371話:彦狭島命~吉備児島

第372話:建日方別:彦狭嶋命 第369話:神武西征~健磐龍命

第365話:君が代(2):君はウツシコオ 第363話:彦はすべて、ウツシコオ

第324話:武内宿禰はウツシコオ!! 第325話:天之日矛はウツシコオ

第279話:開化天皇 第280話:建角身命もウツシコオ

第254話:興玉命も内色許男命 第354話:伊勢津彦はタケミナカタ =ウツシコオ


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>







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7 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 31
Rated 5 out of 5 stars.

一神教


日本は八百万の神がいるといいますが、今のところ記紀に載っている神々は、ウツシコオ(素戔嗚)、卑弥呼、そして豊に行き着いてしまいます。


日本の神は唯一の神である天皇を敬うことにあります。つまり一神教なのです。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 18
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 17
Rated 5 out of 5 stars.

崇神天皇

垂仁天皇(埀仁天皇) すいにん 活目入彦五十狭茅天皇 諡号

景行天皇 けいこう

成務天皇 せいむ 稚足彦天皇 諡号

仲哀天皇 ちゅうあい 足仲彦天皇 諡号

応神天皇

仁徳天皇

履中天皇 りちゅう 大兄去来穂別天皇 去来穂別 諡号

反正天皇 はんぜい 多遅比瑞歯別天皇 瑞歯別 諡号

反正天皇5年1月23日

允恭天皇 いんぎょう 雄朝津間稚子宿禰天皇 稚子 諡号

安康天皇 あんこう

雄略天皇 ゆうりゃく

清寧天皇

顕宗天皇

仁賢天皇 にんけん 億計天皇 大脚

武烈天皇 ぶれつ 小泊瀬稚鷦鷯天皇 稚鷦鷯 諡号

継体天皇

允恭天皇39年(450年?)

安閑天皇 あんかん 広国押武金日天皇 勾 諡号

宣化天皇 せんか

欽明天皇 きんめい 天国排開広庭天皇 諡号

敏達天皇

用明天皇 ようめい 橘豊日天皇 池辺 諡号

崇峻天皇 すしゅん 泊瀬部天皇 泊瀬部 諡号

推古天皇 すいこ 豊御食炊屋姫天皇 額田部 諡号

舒明天皇 じょめい 息長足日広額天皇 田村 諡号

皇極天皇 こうぎょく

孝徳天皇

斉明天皇

天智天皇 てんじ

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jul 17
Rated 5 out of 5 stars.

遣隋使(けんずいし)とは、600年(推古8年) - 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。608年の遣隋使で天皇という君主号が使われたと『日本書紀』は記すが、懐疑的な意見が多い。なお、日本という名称が使用されたのは702年の遣唐使からである。


蘇我 馬子(そが の うまこ[注釈 1]、欽明天皇12年?〈551年〉[2] - 推古天皇34年5月20日〈626年6月19日〉)は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。

推古天皇28年(620年)聖徳太子と共に「天皇記」「国記」「臣連伴造国造百八十部并公民等本記」を記す。

推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した。馬子は聖徳太子と協調した一方、聖徳太子の進めた天皇権力の強化を警戒していた。

推古天皇31年(623年)新羅の調を催促するため馬子は境部雄摩侶を大将軍とする数万の軍を派遣した。新羅は戦わずに朝貢した。

推古天皇32年(624年)馬子は元は蘇我氏の本居で皇室の領地となっていた葛城県(円大臣が雄略天皇に滅ぼされた際に献上した「葛城の五村」「葛城の宅七区」のことであると考えられるが、蘇我稲目の代にはその経営権、管理権は蘇我氏が掌握していたと考えられる[3])の割譲を推古天皇に要求したが、推古天皇に「自分は蘇我氏の出で、大臣は叔父だから大臣の要求は何でも聞いたが、これだけは聞き入れられない」と拒否された。

推古天皇34年(626年)馬子は死去した。


「日本書紀」の編纂は、681年に天武天皇の命により始まり、720年に完成しました12。つまり、約40年かかりました3。


乙巳の変戦争:乙巳の変年月日:645年(皇極天皇4年)6月12日-13日


大宝律令(たいほうりつりょう)は、701年(大宝元年)に制定された日本の律令。「律」6巻、「令」11巻の全17巻。唐の律令を参考にしたと考えられている。

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