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鴨王!邪馬台国に進出

更新日:4月9日

第93話~カラスがカモになった話


山代風土記逸文の加茂神社由来説話によれば、賀茂建角身命は神武天皇を先導してヤマトの葛城山に宿り、そこから次第に鴨川の上流葛城に移ったとされています。賀茂建角身命は八咫烏鴨武角身命(やたからすかもたけつのみのみこと)です。山城賀茂氏(賀茂県主)葛城国造の始祖であり、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神として知らています。


その経路を風土記で辿れば葛城山から、さらに北上して、山代川(木津川)を臨む地、山代国の岡田の賀茂神社(京都府相楽郡加茂町)に至り、さらに山代川との合流点から、葛野川(桂川)と賀茂河の合流点に至り、これを「※石川の瀬見の小川」と名づけ、この川を遡って久我国の北の山基に定座したと伝えられています。久我国の北の山基とは、今の上賀茂神社の西、西賀茂の大宮の森、下賀茂神社の旧社地とされる所です。


※石川や瀬見のをがはの清ければ月も流れを尋ねてぞ澄む~鴨長明『無名抄』石川や瀬見の小川というのは賀茂川の異名です。


鴨王(弟磯城=ウズヒコ)は、葛城から、木津川を遡りウツシコオの内里を通過し、久我(あのクガミミの久我です)から、下鴨神社に至ったということです。前回、海運業者であった弟磯城(鴨王)は、京都府八幡市内里に拠点を移したと書きました。上記の山代風土記は、私の説を証明するものです。久我国の北の山基は「クガミミ」の拠点、「石川の瀬見の小川」は、タケハニヤス大彦の軍から逃げ落ちて、命を落とした場所です。


「賀茂建角身命は神武天皇を先導して、、」とあるのは、まさに八咫烏の仕事です。鴨王はカモ族そのものです。実際は、神武=饒速日の家臣となった鴨王(ウズヒコ=ウツシコオ)は、内里に拠点を置き、そして、亀岡に至る保津川をも制したことで穂積氏の祖にもなったというわけです。内里に住んだことで鴨王はウツシコオ(内色許男命:内は内里)と呼ばるようになりました。


話は変わりますが、弟磯城(鴨王)は、八咫烏に説得(調略)された後、弟磯城は八咫烏を接待しています。

「臣(やつこ)、天圧神(あめおすのかみ)至(いた)りますと聞きて、旦(あした)夕(ゆふべ)に畏(お)ぢ懼(かしこ)まる。善きかな、烏。汝(い)が若此(かく)鳴く」 (手前は天神が来られたと聞いて、朝夕畏れかしこまっていました。烏よ、お前がこんなに鳴くのは良いことだ)


そして葉盤(ひらで=柏の葉を竹釘のようなもので刺して、盤のようにした器)8枚を作り、食物を盛って饗応したとのことなのですが、その実態は、実は、、、


三品彰英(神話学者。海軍教授、大谷大学・同志社大学教授)は、「弟磯城の八咫烏の饗応記事からは、県主家の女性が天皇の食事に奉仕し、県神の体現者として、天皇と添い寝する儀式の存在を思わせる。」と書かれています。彼女達のような女性の存在が、三品彰英のいうような宗儀的な母子関係を伝承してきたものとも想定する説があります。


お分かりでしょうか。この方法で磯城県主(鴨王=ウツシコオ)は、天皇家に后を送り込んでいたのです。日本書紀によると、綏靖天皇から孝安天皇の5代の皇妃は「磯城県主の女」となっており、孝霊天皇の皇后も該当するとのことです。


ウツシコオ(鴨王)の姉ウツシコメも孝元天皇(饒速日)の后になりました。ウツシコメが卑弥呼になる要素は揃ったわけです。三品彰英は、県主家の女性を巫女としています。卑弥呼(ヒミコ)は姫巫女(ヒメミコ)です。


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ところで、弟磯城(鴨王)は、八咫烏(鴨王??)に説得(調略)されえてとあるのは矛盾しているように見えます。そのことについては、後日、説明いたします。



※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。




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tootake
2023年10月14日
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