第358話~カゴメ歌の謎
「夜明けの晩に 鶴と亀がすべった」といえば、誰もが知っている「かごめかごめ」ですが、その謎めいた歌詞の意味については、様々な解釈が試みられています。
「かごめ」とは「籠目(かごめ)」のことで、籠の目は、六芒星になっていることから、ユダヤを意味するのではないかとする説などが、よくネットなどで見受けられます。
籠は、第330話:投馬国とウツシコオ~丹波(但馬) で述べた籠神社(このじんじゃ)のことです。籠神社の境内に入ると、いきなり亀の背中に乗った珍彦(うずひこ)の銅像があります。珍彦はウツシコオです。第84話:うず彦(椎根津彦) ~浦島太郎
鶴と亀の亀はウツシコオ(内色許男命)です。籠神社の神職(社家)は、古くより海部氏(あまべうじ)の一族が担っており、海部氏とは海人部を統括した氏族です。海人部は呉の勝すなわちウガヤフキアエズの一族(多氏)=ウズヒコ(宇治彦)=ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。丹波、丹後、丹波(但馬)すなわち魏志倭人伝にある投馬国とウツシコオは非常に関係が深い場所です。田道間守(タジマモリ)はウツシコオ=難升米です。
籠神社(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社で丹後国一宮です。
参照:アメノヒボコはウツシコオ~投馬国 つまりウツシコオは投馬国の王だったのです。
で鶴は誰かというと、卑弥呼すなわちウツシコオの姉のウツシコメです。鶴、亀は同等に扱われています。「すーべった」は統べる、統率することを表しています。この世を統一運営することを指しています。「後ろの正面だあれ」は 後ろ、つまり背後の見えないところで国を統率しているということで、その神はだれなのかというと天照主日大御神=卑弥呼です。*注下記
伊雑宮と伊勢神宮内宮・外宮を結んだ、その先に籠神社があります。伊雑宮も籠神社も“元伊勢”と呼ばれる神社です。〝元伊勢〞とは、伊勢神宮にいる神様が伊勢に定住するまで仮に住んでいた場所を言います。二十数ヶ所あると言われる元伊勢の中でも、この二つの神社は「本伊勢」と呼ばれ、特別扱いされています。
「いついつでやる」は、天照大神が天の岩戸に隠れてしまったことを指しているともいわれています。邪馬台国(大和朝廷)はウツシコオと姉のウツシコメの二人で統率されていたのです。時には国政をめぐってウツシコオとウツシコメとの意見が合わず対立したこともあったのでしょう。そんなとき、ウツシコメ(卑弥呼=天照大神)は自分の部屋に籠って籠の鳥になってしまったのかもしれません。
鶴と亀については、明治以前の文献で確認されておらず「かごめ」は「神具女」(かぐめ)若しくは「神宮女」(かぐめ)即ち、神を具える女、祈祷を行う「巫女」(ミコ、預言者)や「斎宮」の意味です。
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後記:2024.6・28
鶴と亀が逆でした。亀は乙姫で、鶴が浦島太郎です。丹後国風土記では、浦島が釣った亀が乙女の姿になり、浦嶋を龍宮城に連れて言っていますが、その乙女の名前が亀姫です。
一方、鶴は、最後は、白髪のお爺さんになります。実は、この白髪を「鶴髪(カクハツ)」と言うのです。
<追記>
籠(この)神社の奥に、パワースポットとして有名な眞名井神社があります。
眞名井原には豊受大神(とようけのおおかみ)をお祀りする匏宮(よさのみや)があり、宮中に祀られていた天照大神(あまてらすおおみかみ)が新しい居住地を探して全国を旅します。豊受大神がおられる縁からこの地に遷り、豊受大神と共に吉佐宮(よさのみや)という宮号で4年間暮らしたとされています。匏宮(よさ)と吉佐宮(よさ)は与謝郡のことです。
与謝野 晶子(よさの あきこ)はこの地の出身なのかと思ったら、本名は鳳 志やう(ほう しょう)でした。鳳 =大鳥は大阪府堺市の地名です。
2024.8.10追記
豊受大神を祭る神器の一つは瓢箪だそうです。丹後国与謝郡の与謝(よそ)の地名起源は瓢箪(ひょうたん)であると海部氏勘注系図の割注に書かれています。参照:倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ??
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
※これまでの記事はこちらです。
<目次>
大嘗祭の悠紀と主基と、浦島太郎の関係 (on-linetrpgsite.sakura.ne.jp)
吉備津彦の子孫には、浦の名を持つ人物も居ます。(浦凝別)
丹後国風土記にある浦嶋子の伝説に出てくる亀姫(乙姫)の読んだ和歌は、なぜか、古事記に出てくる吉備の黒姫の和歌と、ほぼ同一です。(参考記事:浦島太郎の乙姫の正体は吉備の黒日売だった!?)
官社とは、祈年祭・新嘗祭に国から奉幣を受ける神社である。官社は神祇官が祀る官幣社と、地方官(国司)が祀る国幣社に分けられ、律令制の社格に倣ってそれぞれに大・中・小の格があり、「昇格」が行われた。官幣社・国幣社をまとめて官国幣社ともいう。
主として官幣社は二十二社や天皇・皇族を祀る神社など朝廷に縁のある神社、国幣社は各国の一宮や地方の有力神社が中心である。官幣社・国幣社に実質的差異はないが、例祭について、官幣社へは皇室(宮内省)から、国幣社へは国庫から幣帛が供進された点が異なる(祈年祭・新嘗祭はどちらも皇室から奉幣を受ける)。明治初年、国家の宗祀であるとして、官費が官社の経費として支給されたが、明治20年(1887年)度より毎年国庫から各社に保存金が下付され、明治39年(1906年)4月、供進金制度となった。金額は次第に増加し、昭和12年(1937年)度には73万円になった。また、朝鮮神宮、台湾神宮にはそれぞれの総督府から、靖国神社は陸軍省から、供進金があった。当初は官幣社のみに菊花紋章の社殿の装飾への使用が認められたが、明治7年(1874年)に国幣社にも認められた。
国幣大社は当初から指定された神社はなく、大正4年(1915年)に国幣中社の気多神社・大山祇神社・高良神社、県社の多度神社が昇格したのが最初である。最終的に1925年に6社となったが、官幣大社の65社、国幣中社の47社に比べると少なかった。
「天五十楯天香語山命」とあります。「五十楯」(イタテ)は五十猛のことです。天香語山命が五十猛命であるという仮説が成り立ちます
※出雲~タケハニヤスは山代国(京都府)愛宕郡の出雲(現在は出雲路)に領地を持っており、タケハニヤスは出雲の王と呼ばれていました。タケハニヤスは反乱を起こしたことから、出雲は大和の敵という意味になったのです。
鎮魂祭(ちんこんさい、みたましずめのまつり)とは、宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式である。宮中三殿に近い綾綺殿にて行われる。一般的ではないものの、宮中と同日に行われている石上神宮や、彌彦神社、物部神社など、各地の神社でも行われる例もある(うち彌彦神社は年二回)。天皇に対して行う場合には「みたましずめ」「みたまふり」と言う。鎮魂祭はかつては旧暦11月の2度目の寅の日に行われていた[1](太陽暦導入後は11月22日)。この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式と考えられる。また、新嘗祭(または大嘗祭)という重大な祭事に臨む天皇の霊を強化する祭でもある。第二次世界大戦以後は皇后や皇太子夫妻に対しても行われている。
鎮魂の儀では、宇気槽(うきふね、うけふね)と呼ばれる箱を伏せ、その上に女官が乗って桙で宇気槽の底を10回突く「宇気槽の儀」が行われる。これは日本神話の岩戸隠れの場面において天鈿女命が槽に乗って踊ったという伝承に基づくとされている。『古語拾遺』に「凡(およ)そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺趾(あと)なり」とある。かつてこの儀は、天鈿女命の後裔である猿女君の女性が行っており、「猿女の鎮魂」とも呼ばれていた。
魂振の儀[編集]
鎮魂の儀の後、天皇の衣を左右に10回振る魂振の儀が行われる。これは饒速日命が天津神より下された十種の神宝を用いた呪法に由来するとされる。『先代旧事本紀』には、饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種の神宝を使って神武天皇の心身の安鎮を祈ったとの記述があり、「所謂(いはゆる)御鎮魂祭は此よりして始(おこ)れり」としている。