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吉備津彦~アタ姫を切った男?

更新日:3月5日

第239話~吉備津彦は五十猛神!


本の名:彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)、亦の名:吉備津彦命(きびつひこのみこと)、孝霊天皇の子で、姉はあの倭迹迹日百襲媛命です。私の考えでは孝霊天皇は素戔嗚です。孝元天皇(饒速日)も孝霊天皇の子です。


日本書紀では崇神天皇10年9月9日に、吉備津彦を西道に派遣するとあり、同書では北陸に派遣される大彦命、東海に派遣される武渟川別、丹波に派遣される丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されています。

古事記では日本書紀と異なり、孝霊天皇の時に弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣されたとし、吉備国平定を果たしたと書いてあります。


崇神天皇10年9月27日条によると、派遣に際して武埴安彦命とその妻の吾田媛の謀反が起こったため、五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吾田媛を、大彦命と彦国葺が武埴安彦命を討った。その後、四道将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告したという。また崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により吉備津彦と武渟川別は出雲振根を誅殺しています。


崇神天皇10年に①「四道将軍」となり北陸に行き、また②吉備国(岡山県)平定し同年に③タケハニヤスを討ったのです。この時20歳だったとしましょう。そしたら崇神天皇60年に出雲振根を討ったときは、70歳代になっていた計算です。


①については、孝元天皇の子が孝元天皇の孫である崇神天皇の命令で動くとは考えにくく、②③が同年とされているのやや無理があります。③は完全に嘘でしょう。


孝元天皇=素戔嗚の8人の子供のなかに五十猛神、大年神がいます。私は大歳も五十猛神も饒速日だと思っています。素戔嗚尊の8人の子供(八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命)五十猛彦は饒速日!


吉備津彦こと彦五十狭芹彦命は五十猛ではないでしょうか。

岡山県にある吉備津彦神社はもともとは五十猛を祭っていたと思われます。その先の鳥取県日野郡日南町には楽々福神社(ささふく)があります。楽々福神社は孝霊天皇を祭っています。日南町は鳥取県の南の端で、峠を一つ越えれば岡山県(吉備)です。

一方、備前(岡山県)にはミワ神社が三社も(美和神社、大神神社、神神社)あります。ミワ神社は大物主(=長脛彦)を祭っています。大物主は長脛彦

饒速日=五十猛と長脛彦は同盟を結んでいたため、自由に吉備(岡山)を通行できました。近畿圏では九州のように鏃が刺さった遺体は出土していません。吉備と大和朝廷(邪馬台国)と大規模に戦った形跡はありません。


彦五十狭芹彦命は、記紀ではここぞという要所、要所で登場しています。ヒーロー(桃太郎)として描きやすかったのでしょう。


吉備津彦の子孫とされる吉備氏をみてみると、①景行天皇の妃となった播磨稲日大娘は、ヤマトタケルを生んだ。②そのヤマトタケルと共に蝦夷遠征を行った吉備武彦の娘は、ヤマトタケルの妃となった。③吉備武彦の子の鴨別(かもわけ)は、仲哀天皇の熊襲征討に功績があった。④兄媛は応神天皇の妃となった。

①②のヤマトタケル、③の仲哀天皇、④の応神天皇についてはいずれも実在した人物とは思われていません。つまり吉備津彦こと彦五十狭芹彦命なる人物は存在しないということです。


※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。








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2 Kommentare

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
24. Feb.
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古事記では、国香媛の父親は、第3代安寧天皇(シキツヒコタマデミ)の子の和知都美命(わちつみ)であるとしています。古事記はこの和知都美命は淡路島の御井の宮(淡道之御井宮)に住んだと書いています。


香用比売は他に大香山戸臣神(おおかぐやまと)生んでいます。

高倉下(大彦)の別名は天香語山命で大香山戸臣神とよく似ています


  • 比婆山久米神社(島根県安来市)[3] - 安来市の比婆山(331m)の麓にある神社。山頂には奥宮がある。

  • 熊野神社(広島県庄原市) -広島県庄原市から島根県仁多郡奥出雲町にまたがる比婆山(1264m)の広島県側山麓にある遥拝神社。山頂には「比婆山御陵」がある。旧「比婆大社」。

母神イザナミのいる根の国に行きたいと願い、イザナギの怒りを買って追放されてしまう[3]。そこで母の故地、出雲と伯耆の堺近辺の根の国へ向う前に姉の天照大御神に別れの挨拶をしようと高天原へ上るが、天照大御神は弟が攻め入って来たのではと思い武装して応対する。スサノオは疑いを解くために誓約(うけひ)を行った。


戸矢学氏はこうも述べられておられます。p169より引用「神殺し」の本当の意味は征服。

日本書紀を子細に見ると、殺されたはずの族長と思しき人物が名を一部変えて地位を得て臣従していることに気付きだろう。微妙にタイムラグを設定しながらも記録を残しているはその子孫が存在するからだ。彼らは、もともと敵対していたのにその後帰順した大事な臣民だからだ。例えば、名草トベは殺されたことにし、その神威を吸収した新たな神を生む。

                 引用ここまで。

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