第189話
枚岡(ひらおか)神社は東大阪市出雲井町にあります。祭紳は奈良県にある春日大社と同じです。要するに、藤原氏(中臣氏)のための神社です。
天児屋根命 - 第三殿。藤原氏の祖神(河内国平岡の神)
比売神 - 第四殿。天児屋根命の妻(同上)。
武甕槌命 - 第一殿。藤原氏守護神(常陸国鹿島の神)
経津主命 - 第二殿。同上(下総国香取の神)
祭神については、次回で述べるとして今回は東大阪市の「出雲」という地名について考えてみることにします。私は、この枚岡神社のある地は、第165話で述べた出雲振根(いずもふるね)の出身地ではないかと推測しています。出雲振根(いずもふるね) (hidemaru3375.com)
岩波日本古典文学大系「日本書紀」には出雲臣は近畿の地を本拠にして出雲に進出したと上巻559pの注にあります。
出雲振根の弟の飯入根(イイイリネ)は姓氏録には「土師宿禰・菅原朝臣の祖の天穂日(アメノホヒ)の12代孫の飯入根」とあり、同じく弟の甘美韓日狹(ウマシカラヒサ)は同じく姓氏録の「凡河内忌寸(おおちかわちうじ)の祖で天穂日の13代孫可美乾飯入根」と同一人物ではないかと思われます。東大阪は河内です。凡河内忌寸(おおちかわちうじ)は主に畿内を中心として勢力があった古代豪族です。第166話で述べたように出雲の神宝も現在大阪府富田林市宮町の美具久留御魂(みぐくるみたま)神社にあります。富田林も河内です。
そして土師氏は、能見の宿祢を祖先とする一族で古墳時代において、忌部氏とともに葬送儀礼に関った氏族です。忌部氏は、5世紀後半から6世紀前半頃にその地位を確立したとされ、出雲・紀伊・阿波・讃岐等に設置されていた品部を掌握して物資を徴収したほか、祭具の作製や神殿・宮殿造営に携わっていました。
その後は中臣氏とともに伊勢奉幣使となるのが例(ならわし)となりましたが、次第に中臣氏の勢力に押され、奉幣使補任は減少しました。その後は中臣氏の他氏排斥が著しくなり、忌部氏固有の職掌にさえ就けない例が生じることとなりました。
中臣氏との勢力争に負けた出雲振根の一族の末裔は、その領地であった東大阪市の出雲の土地を中臣氏に乗っ取られたしまったのでしょう。もちろん出雲という地名も振根が崇神天皇(大和朝廷)に逆らったから出雲とされてしまったのです。
このプログ(小説)では、タケハニヤスが大規模な反乱を起こしたため、大和朝廷では反逆者を出雲と呼ぶようになったというのがテーマの一つになっています。タケハニヤスを討ちちとった大彦(=大国主)も後に時の宰相のウツシコオによって出雲と呼ばれるようになってしまいます。タケハニヤスの乱最終章
※これまでの記事はこちらです。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。
枚岡神社~東大阪市出雲井町
<大彦>
天香語山命~大彦も五伴緒のメンバー
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
卑弥呼はイカガシコメ??
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴
とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中
お多福さんと五十鈴姫
金屋子神は五十鈴姫