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tootake

忌部氏(彦幸)~和歌山・名草

更新日:4月16日

第97話


紀ノ國(木の国)の名草にとても優れた男の子がいたそうです。名前は、彦狭知(ヒコサチ:日本書紀)。古語拾遺の神代段で父と共に登場し、天御量を使って大小の峡谷の木を伐採して瑞殿を造営し、御笠・矛・盾を制作したとされています。同書の神武天皇段にも父と共に登場し、太玉命の孫・天富命(注:下記)に率いられて山から木を伐採して、神武天皇の正殿を造営しました。


天太玉命は、古語拾遺では高皇産霊神(タカミムスビ=ウツシコオ)の子であるとしています。古語拾遺とは、忌部氏の子孫斎部(いんべ)広成が平安時代に書いた歴史書です。忌部氏は、記紀の天岩戸神話にも現れる天太玉命を祖とします。太玉命は忌部首等の祖で饒速日の五伴緒の一人です。


一方、天孫本紀を見ますと、ヒコユキ(彦湯支)という人物が物部連系譜に一番上に書かれています。

牧尾一彦氏は「邪馬台国と神武天皇」の中で、ヒコユキと大綜麻杵(オオヘソキ)=ウツシコオは同一人物であるとされています。p367


つまり名草の優れた男の子は彦狭知(ヒコサチ)はヒコユキだと思われます。ヒコユキは彦幸と本来は書かれていたはずです。なんでこんなことをいうかというと、私の伯父は「幸男」という名前だったのですが、皆から「サチオ」と呼ばれていたのです。が、ずいぶん経ってから祖母からは本当は「ユキオ」というのだと聞かされて驚いた記憶があるからです。


これで、ウツシコオ=ウズヒコ=鴨王はヒコユキ(ヒコサチ)です。ところで以前(第48話)「太田市と遺跡」というプログを書きました。そして、ウツシコオ=難升米が、魏の国の言葉や歴史にも精通していると前回、書きました。それもそのはず、名草は、韓の国から渡ってきた人々が住んでいるた場所だったのです。


「太田と称するわけは、昔、呉の勝(スグリ)が韓の国から渡ってきて、はじめ紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田の村に着いた、その後、分かれて摂津の国の三島の賀美の太田の村に移ってきて、それが揖保の太田の村に移住して来た。これは元居た紀伊の国の太田をとって里の名とした。」播磨国風土記


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名草の黒田遺跡、鍵・唐古遺跡(田原本町にある孝霊天皇の黒田宮の近く)、三島の東奈良遺跡(太田)はつながっていたことが上記によっても良く分かります。箸墓古墳のある桜井市の太田は、田原本町は5つの鏡造り神社とほとんど隣接しています。


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彦幸(ヒコユキ、ヒコサチ)の別名は、キサキの足尼(スクネ:宿祢)と言うそうです。

キサキ、つまり天皇の后:妃ということです。磯城(志木)縣主=鴨王=ウツシコオが歴代の天皇に后(キサキ)を次々と送り込んだことはすでに述べています


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*注


天富命~神武東征においては、手置帆負命・彦佐知命(ヒコサチ)の二神の孫の讃岐忌部・紀伊忌部を率い、紀伊の国の材木を採取し、畝傍山の麓に橿原の御殿を作った。また斎部の諸氏を率いて種々の神宝・鏡・玉・矛・楯・木綿・麻等を作らせ、そのうち櫛明玉命の孫の出雲玉作氏は御祈玉を作った。





※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。。 

※これまでの記事はこちらです。



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tootake
11 de out. de 2023
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