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長脛彦は五瀬命!?

更新日:2023年10月26日

第106話


長脛彦は、強かった。長脛彦は蝦夷だった。そんな風に思い込んでいましたがそのことを証明するような歌があります。


「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人を倒すと人は言うが、我が軍には手向かいもしない)

神武東征紀中に詠まれている来目歌の一つに愛濔詩です。(日本書紀)


本当のところ彼は何者だったのでしょう。少なくとも物部の一族ではありません。そんな資料は一切ないからです。それなのに神武軍と同等以上の装備(鉄器)を持っていました。神武軍と同じ天羽羽矢(あまのははや)を持っていました。天羽羽矢は鏃(やじり)のことで、初期の古墳から副葬品としてよく出土しています。蝦夷が鉄器をどこで調達したのでしょうか。饒速日の配下とされていますが、どこでどんないきさつで配下になったのでしょうか。


神武天皇が浪速国青雲(しののめ)の白肩津に着したのち、孔舎衛坂(くさえのさか)で迎え撃ち、このときの戦いで天皇の兄の彦五瀬命(五瀬命)は矢に当たって負傷し、後に死亡しています。


私は神武天皇は饒速日であると思っています。浪速国青雲というのは地名です。今は茨木市立東雲中学校ができたため茨木市学園南町になっていますが、元は東雲(しののめ)町です。五十鈴姫のいた五十鈴町、玉櫛姫のいた玉櫛町のすぐ近くです。神武天皇(饒速日)の本拠地は、ここ東雲だったのでしょう。


上垣内憲一先生は、奈良県の県道162号線で、紀ノ川から泉佐野に向かう道筋に「ナカ」という地名が集中していることに注目されておられます。以前は那賀(なか)といわれた地で水銀朱が発掘されていた場所です。長脛彦のナガはナカではないのか、つまり長脛彦はこの辺りに拠点を置いていた豪族ではなかったと推測されておられます。


ここからは私の推測なのですが、この時期に神武以外にもこの場所にいたと思われる人物がいます。第75話で触れた兄とされる三毛入野と神武の五瀬命です。

五瀬命は矢で負傷し紀国竈山で亡くなり、竈山に墓が築かれたといいます。75話ではその頃木の国にいたと思われるスサノオ(神武?)五十猛彦(ニギハヤヒ)と衝突し、追い払われたのではないでしょうかとかきました。しかしこの時、五瀬命が饒速日に降伏したとすればどうでしょう。五瀬命は、饒速日の部下となり長脛彦になったというのが私の推論です。蝦夷には、自分たちと違うもの、よそから来たものという意味もあります。五瀬命は、九州の高千穂の出身で、物部一族からすればよそ者(蝦夷)です。


今毛人、鴨蝦夷のように大和朝廷側の貴族の名に使われたことや、平安時代後期には権威付けのために蝦夷との関連性を主張する豪族(安倍氏や清原氏)が登場していることから、「えみし」には強さや勇敢さという語感があったと推測されています。そこから、直接その意味で用いられた用例はないものの、本来の意味は「田舎の(辺境の)勇者」といったものではないかという推測もあります。


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<後記>

神武の軍は、奈良県の宇陀でウカジ兄弟、エウカシとオトカシと戦っています。

エシキ、オトシキとの戦いの引用と思っていました。いづれも弟が神武に寝返り兄を討っています。エウカシが五瀬命でオトカシが三毛入野だとすればどうでしょう。エシキを討ったオトシキは磯城の縣主に抜擢されていますが、オトシキについてはなにも書かれていません。オトシキはそのまま神武の家臣になったと思われます。とすると神武=饒速日の家臣になったのは三毛入野で、この人物こそが長脛彦であるという考えもできます。三毛入野は熊野灘で暴風雨に会い、常世に行ったとされています。また、三毛入野は熊野三山の一人の家津美御子(ケツミミコ)であるという説もあります。



※これまでの記事はこちらです。このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。

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tootake
25 de out. de 2023
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