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tootake

天之日矛と阿加流比売神

更新日:5月22日

第182話~西淀川区姫島


第176話で「氣比神宮の主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのかみ)、古事記によれば、はじめ品陀和気命(ほむたわけのみこと=応神天皇)の前名であったが、神功皇后の朝鮮遠征の帰途、角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)の大神(誉田別神)が夢に現われて、名をとりかえることを望んだといいます。」と書きました。実は、伊奢沙別命は天日槍であり、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)だそうです。


昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。

その娘が難波(大阪市東成区)の比売碁曾(ひめごそ)の社の阿加流比売神(あかるひめのかみ)であるといいます。「阿加流」は「明る」で「比売」への美称で「色美しくつやのある女性」という意味です。大阪市西淀川区姫島には姫嶋神社があり、やはり阿加流比売神を祭っています。地名に姫島とあることからこっちの方が本家でだと思います。摂津国風土記によると、阿加流比売神(アカルヒメ)は難波(なにわ)に移り住み、元いた島の名をとって姫島と名付けたとあります。大分県国東(くにさき)半島の沖あい6kmに浮かぶ小さな島が姫島があり、そこに阿加流比売神(アカルヒメ)はいたのですが、朝鮮半島に近いので難波に移住したそうです。この移住は正解で、天之日矛は、日本に渡来して難波に着こうとしたが、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)が遮ったため入ることができなかったそうです。そこで再び新羅に帰ろうとして但馬国に停泊したが、そのまま但馬国に留まり多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り、前津見との間に多遅摩母呂須玖(たじまのもろすく)を儲けたとされています。


多遅摩母呂須玖が、田道間守(タジマモリ)で、垂仁天皇の命令で非時香菓(ときじくのかくのみ)すなわちタチバナ(橘)を求めに常世の国(魏)に派遣されました。京都大学教授内藤湖南氏は、この田道間守を難升米だとされておられます。難升米はタジマモリ??? ~立花(尼崎市)


そして多遅摩母呂須玖から息長帯比売命(神功皇后)と応神(誉田別)ができたする系譜が伝えられているのですが、99%作り話でしょう。1%の真実は、天之日矛が朝鮮半島から来たことでしょう。天之日矛は個人の名前ではなく、半島からの移住者集団の名前とされています。その中には、角が生えているような兜をかぶっている人がいてその人が都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)つまり”角のある人”ということだと思います。


   次回に続く


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2024.5.22追記

1%の真実は、天之日矛が朝鮮半島から来たことでしょう。と書きましたがその1%も怪しくなってきました。

関連項目:天之日矛は、、、、、 もご覧ください。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>


阪神姫島駅



姫嶋神社~大阪市西淀川区姫島


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4 Comments

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tootake
Dec 22, 2023
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第1に「豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母」の内容である。系図上では神武天皇の母は玉依姫であるから外祖母とは豊玉姫のことではないか。豊玉姫の子供は、ウカヤフキアヘズ命と、新羅王脱解、と安曇磯良(住吉大神)である。 故に、この由緒書きは信頼できると言えよう。従って豊比売命=豊玉姫だ。


第2に「忍骨命は、天津日大御神の御子」の記事である。系図上は忍骨命の父は「天照大神」である。従って天津日大御神=天照大神だ。これも信頼出来る内容と言えよう。


第3に辛国息長大姫大目命は「崇神天皇の御代に帰座せられ」の内容である。崇神天皇の時代の神ということになる。神功皇后と同じ名前であるが、神功皇后は崇神天皇の4代後であるから別の神である!


第4に「各神霊を香春岳上頂三ケ所に奉祀せしが、元明天皇の和銅二年に、一之岳の南麓に一社を築き、」の内容である。 元明天皇の時代に宮祠が山頂から麓に降ろされたとある。元明天皇の時代とは、天武天皇の次の世代にあたり、倭国が滅び日本国の基礎が固まった時だ。風土記が編纂され、日本中の地名改定の詔が発布されたまさにその年にあたる。聖山の頂に祀られていた神々は、国が滅びると次の時代の支配者から地上に引き降ろされた。同じことがされたのだ・・・。従って、山頂に祀られていたのは倭国の神々である。


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tootake
Dec 22, 2023
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香春神社


主祭神 辛国息長大姫大目命

忍骨命

豊比売命

辛国息長大姫大目神社 - 正一位(承和10年)

忍骨神社 - 正一位(承和10年)

豊比咩神社 - 正二位(建仁元年) 

創建 不明 三社を合祀、香春宮と称したのは和銅2年

本殿の様式 神明流造

例祭 5月5日

香春神社(かわらじんじゃ)は福岡県田川郡香春町にある神社。式内小社、旧社格は県社。


延喜式神名帳に記載されている豊前国の神社は六座だが、その半分にあたる三座が香春神社にある。 (残りの三座はすべて宇佐神宮内)三座は、辛国息長大姫大目神社、忍骨神社、豊比咩神社で、もともと香春三山(一ノ岳・二ノ岳・三ノ岳)の山頂にあった[1]。


和銅2年(709年)に山頂の三社を現在地に移設したのが、現在の香春神社。古来より宇佐神宮と共に豊前国を代表する大神社だった。 辛国息長大姫大目神社と忍骨神社に正一位の神階が与えられたのは、承和10年(843年)で、これは奈良の大神神社(859年)、石上神宮(868年)、大和神社(897年)が正一位になった年よりはるかに早い。


平安時代初期における香春神社の社格は非常に高く、現在豊前国の一宮は、一般的に宇佐神宮とされているが、古い資料の中には香春神社を一宮と記しているものもある。[2]

宮司は代々、赤染氏、鶴賀氏が務める。


祭神

辛国息長大姫大目命

忍骨命

豊比売命

日本三代実録は、豊比売命を辛国息長大姫大目命と同一している。   社前には、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、豊前国鷹羽郡鹿原郷の第一の岳に鎮まり給ひ、第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。 第三座豊比売命は、神武天皇の外祖母、住吉大明神の御母にして、第三の岳に鎮まり給ふ」と書かれている。


『豊前国風土記』逸文には、辛国息長大姫大目命は、昔神羅より渡って来た神であると書かれている[3]。


辛国息長大姫大目命と神功皇后との関連性は古くから議論されている。応神天皇の母で三韓征伐を行い、朝鮮半島支配に成功した神功皇后は、『古事記』において息長帯比売命・大帯比売命と記されている。辛国は三韓征伐を行った韓国に通じる。辛国息長大姫大目命と神功皇后の同一性が指摘されている[4]。


日本三代実録は、豊比売命を辛国息長大姫大目命と同一している

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tootake
Dec 22, 2023
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比売語曽社(ひめこそしゃ)は、大分県姫島東国東郡姫島村)にある神社である。比売語曽神社とも呼ばれる。祭神は比売語曽神。


古事記』の国産み神話でイザナギイザナミが12番目に産んだ島とされる女島(ひめじま)とされる(「天一根」の名もある)[2]。『日本書紀』では意富加羅国の王子の都怒我阿羅斯等が白い石から生まれた姫と結婚しようとしたが、姫はこの島に逃れて比売語曽の神となったとされ島名の由来になっている[2]

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tootake
Dec 22, 2023
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