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淀津遺構

第242話~この記事は2022/09/04 の読売新聞オンラインを参考に書きました。



「まさかの発見に、頭の中がまっ白になった。すぐに弥生期の土器片が出始め、想定のはるか上をいった」 調査研究技師の松永修平さん(31)は振り返る。

この記事を見つけたときは既にこのブログを書き始めていたので失礼ながら「あほちゃうか。あたりまえやんか」と思いました。


平安京の玄関口として栄えた港「淀津」の遺構が桂川西岸(京都市伏見区)で初めて確認されたのは2022年です。弥生から明治時代の2千年以上にわたる各時代の遺構や遺物が出土。この場所で、人々の営みがほぼ途切れることなく続いていたことも分かりました。河川敷で連続性のある遺構が見つかることは、全国的にも珍しいといいます。


調査地は、桂川、宇治川、木津川が交わる合流点で、水運を利用した交通や軍事の要として栄えてきた。平安京から南に約10キロの位置にあり、平安時代の歴史書「日本後紀」には、桓武天皇が淀津へ行幸したという記録が残っています。これまで、「淀津」の存在は文献史料だけで伝えられていました。今回の調査で初めて遺構が見つかり、淀津が存在していたことを裏付ける発掘になりました。


調査地からは、弥生時代から明治時代までの2千年以上にわたり、人々の営みがほぼ途切れることなく続いていたことがわかる遺物も出ています。文献に登場する前から栄えていたとみられています。弥生時代の層からは現在の大阪や東海地方で作られた土器が出土し、当時から遠隔地と交流があった様子もうかがえ、流通の結節点として港が発展していたことがわかります。関西一円の物流のあり方も考えるデータになると評価されています。


「あたりまえやんか」と私が思ったのは、この場所は、まさに鴨族の拠点地だったからです。三島の溝杭、建御雷:タケミカヅチ、タケハニヤスはここを拠点にしていたのです。ウツシコオの名前の由来になった八幡市の内里もすぐ近くです。

ここは木津川 ・桂川 ・旧宇治川の合流点附近です。図 参照。 即ち木津 川は佐山 よ り御牧を経 て淀 川に入り、桂 川は鳥羽の南より加茂川 を合せて納所 沼に入り、宇治川は槇島附近より巨椋池に入 り池の西端は桂川・木津川の主流,支 流 が交錯 しつつ合流 していたようで、附 近は広大な低 湿地帯 をなしていました。元来 「よど」 と云う地名は水のよどむ即 ち停滞することを表 しています。



※これまでの記事はこちらです。

※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。






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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Feb 27
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