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この花咲くや姫2~大山祇は開化天皇

更新日:5月23日

第139話~邪馬台国異聞14


前回の続きです。古事記では、神阿多都比売(かむ・あたつ・ひめ)、日本書紀では本名を神吾田津姫(かみあたつひめ)別名を木花開耶姫(このはなのさくやびめ)、邇邇芸命(ニニギノミコト、ホノニニギ)から求婚を受けます。父の大山津見神はそれを喜んで、姉の石長比売(イワナガヒメ)と共に嫁がせようとしましたが、邇邇芸命は醜い石長比売を送り返し、美しい木花之佐久夜毘売とだけ結婚しました。


邇邇芸命(ニニギノミコト)は、崇神天皇(ミマキイリヒコ)とする説があります。また神武天皇の最初の妻は、吾平津媛(あひらつひめ)は、古事記では阿比良比売(あひらひめ)です。日本書紀には、日向国吾田邑の人であると書かれています。日向が当時の九州の地名であった根拠はなく、私は、日向は近畿地方を指すのではないかと思っています。上垣内先生は、きっぱりとアタは、九州のアタではなく五條市のアタと言い切っておられます。


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筑紫国の名前が現れるのは、どんなに早くても西暦280年である。卑弥呼の生きた時代以前は北九州をチクシとは呼ばれ無かった。まして、弥生時代には、筑紫も筑紫の日向、筑紫の日向のクシフル岳も存在しなかった。

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木花之佐久夜毘売の本名の神阿多都比売(かむ・あたつ・ひめ)の”あたつ”は「”アタ”の姫」といういみです。とすれば、木花之佐久夜毘賣(この花咲くや姫)の話は、大山祇(大山津見神)が神武天皇に、二人の娘を嫁がせようとしたということになります。

記紀には、事代主神の大女(えむすめ)こと媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ: 伊須気余理比売:イスケヨリ姫)を皇后としたとあります。また、事代主神の少女(おとむすめ)五十鈴依媛命(イスズヨリ姫)を第二代 綏靖天皇の皇后にむかえたかいてあります。つまりイスケヨリ姫とイスズヨリ姫は別人で姉妹だということです。ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴 (hidemaru3375.com)


木花之佐久夜毘賣が大女(えむすめ)で、石長比売が少女(おとむすめ)したらどうでしょう。以前書いたように事代主は三島の溝杭と間違われていますので、ここでは事代主=大山祇で話が合います。南方刀美神(タケミナカタ)~三島の溝杭3代目


とすると、住吉大社神代記に、大日日命(オヒビブビノミコト)は開化天皇でミマキイリヒコ(崇神天皇)の父と書いてあることが生きてきます。

大日彦(大山祇)が、木花之佐久夜毘賣が嫁がせようとしたのが、ニニギ=ミマキイリヒコ(崇神天皇)だとすれば、大日彦(大山祇)が開化天皇だというのは十分に納得できる話です。大日(だいにち)は地名(大阪府守口市)


開化が「開花」とすれば、「この花咲く」の名前の由来がよくわかります。(冗談です。)

上垣内先生によれば開化天皇の墓は茨木市(三島)の紫金山古墳です。

なお開化天皇の名前は稚日本根子彦”大日”日天皇(日本書紀)若倭根子日子大毘毘命です。



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>


咲くやこの花館


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tootake
02 nov. 2023
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