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ウマシマジの憂鬱

更新日:4月21日

第44話


古事記では宇摩志麻遅命日本書紀では可美真手命(うましまでのみこと)、先代旧事本紀では味間見命(うましまみのみこと)。あの饒速日の長男です。ウマシとは麗しいの意味で、「大和しうるわし」のウマシです。


饒速日が死んで物部のトップに立っべき人なのですが、妹の五十鈴姫(ホト・タタラ・イスケヨリ姫にその座を譲ります。五十鈴姫は、御牧入彦(崇神天皇)の妃の可能性があります。ウマシマジの母は、三炊屋媛(みかしきやひめ)で長髄彦の娘です。


高槻の地名の由来の記事でも、大伴氏とともに伯父のナガスネヒコ(長脛彦)の討伐に行かされたと書いてありました。これはいったいどうしたことでしょう。

長脛彦は、饒速日の忠実な部下です。何故、討伐する必要があるのでしょう。


やはり、ウツシコオ(物部ではあるが大和朝廷側)の陰謀でしょう。

饒速日と長脛彦は河内から、尾張、そして東日本に続く広大な領地を支配していたと思われます。饒速日が死んだあとウツシコオがその領地をほおっておくはずがありません。


旧事本紀によれば、「神武天皇即位の後、饒速日命の遺した10種の天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)を献上し、それを使って天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったとされ、これを後世の鎮魂祭の初めとしている。」と書かれています。要するに全て大和朝廷に取られてしまったのでしょう。


御牧入彦を崇神天皇として即位させ、絶大な権力を手にしたウツシコオ(思金)にはもう誰も逆らえません。ウマシマジもウツシコオの家来に成り下がってしまいました。


ウマシマジは、饒速日の領地を忠実に守っていた伯父の長脛彦を見事に打ち取りました。これが、神武天皇の東征の真実でしょう。軍の中にはイワレ彦(神武天皇)もいたのでしょう。


物部神社の社伝によれば、美濃国・越国を平定した後に石見国(根の国:島根県)で没し、現在の社殿の裏に埋葬されたといいます。越国の平定は、異母兄の天香山命の事績として知られる(彌彦神社を参照)。これら物部神社や彌彦神社では、宮中でも行われる鎮魂祭が行われていることでも知られる(石上神宮も同様)。


こうして、崇神天皇は麗しい大和(邪馬台国)を手にいれたのです。

ミ・マキ入彦(崇神天皇)は、ハツクニシラス・スメラミコトと呼ばれるようになりました。崇神は御肇国天皇で、神武は始馭天下之天です。


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※この話はBC240年前後で饒速日(65歳)で崩御 卑弥呼(ウツシコメ)42歳 

 大彦(大彦)31歳、ウマシマジ27歳 



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

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tootake
Aug 26, 2023
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