第220話
寝屋川市に隣接するのが四條畷市です。四條畷市の歴史は古く、全時代を通じて古墳時代の遺跡が最も多く、出土品も豊富です。忍岡古墳は古墳の時代前期のもので、近くには集落跡が発見されており、この辺りも邪馬台国の一角であったと私は思います。
忍ケ丘駅前遺跡からは子馬形埴輪が出土しています。高さ27ンチ、全長41センチの埴輪です。かわいらしい顔で、子どもらしいずんぐりとした体つきをしています。
同じく馬形埴輪も市指定有形文化財で南山下遺跡の大溝から見つかりました。高さ54センチ、全長86センチで、馬具を付けた立派な馬を模しています。足が短くずんぐりとした体形は、蒙古系の馬の特徴をよく反映しています。
古墳時代中期に、朝鮮半島から来た渡来人によってが馬の文化(馬匹文化:ばひつ)が伝わっています。馬匹文化にともなって大和朝廷(邪馬台国)は、便利な生活文化も根付いた先進的な地域となっていきました。讃良郡(四條畷)を中心とした地域で育った馬は、最新の軍事・運輸・通信に重要な役目を果たしました。
四条畷市の蔀屋(しとみや)北遺跡では馬の骨や歯の一部が多数みつかっています。また馬に騎乗するための馬具や、飼育に必要であった塩を用意した大量の製塩土器も発見されています。これらの出土資料から蔀屋北遺跡は馬の飼育をおこなった人々(馬飼集団)の集落跡であったことが明らかにされています。
蘇我馬子は、天皇に觴(さかずき・酒杯)とともに次の歌を献上したといいます。
やすみしし 我が大君の 隠ります 天の八十蔭 出で立たす 御空を見れば 万代に斯(か)くしもがも 千代にも斯くしもがも畏(かしみ) 仕え奉らん 拝(おろが)みて 仕えまつらん 歌献(うたづ)きまつる
やすみししとは、大王(おおきみ)に対する枕詞ですが、やすみしは休氏を表すのではないかとする研究者もいます。休氏は、月氏の一派で、紀元前3世紀から1世紀ごろにかけて東アジア・中央アジアに存在した遊牧民族とその国家名です。紀元前2世紀に匈奴に敗れてからは中央アジアに移動し、大月氏と呼ばれるようになります。大月氏時代は東西交易で栄えたそうで、この休氏が大和(邪馬台国)に馬の文化(馬匹文化)を伝えたと思われます。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
※これまでの記事はこちらです。
四条畷市内で出土した仔馬の埴輪
<大彦>
天香語山命~大彦も五伴緒のメンバー
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
卑弥呼はイカガシコメ??
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴
とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中
お多福さんと五十鈴姫
金屋子神は五十鈴姫