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塞ノ神と佐比の岡とおくどさん

更新日:2 日前

第536話 #塞ノ神 #おくどさん #台与(豊) #邪馬台国


前回:佐比の岡~兵庫県太子町では、佐比(さい)は鉄器のことです。岡山県北部で始まる製鉄操業のことです。「さい」は、五十鈴姫(ホト・タタラ・イスケ依姫)のことで、五十鈴姫は台与(豊)です。と書きました。

「佐比」は、刀剣あるいは農具の鉏(さい)、鋤(すき)のことと云われています。


そして「さい」はいつの間にか峠の神になってしまったようです。

 峠のような場所であれば、危険な場所であり、往来の安全を祈るため、峠の神、道の神が必要とされたのです。


前回も書きましたが、播磨風土記 揖保の郡 揖保の里の条に、佐比と名づけたわけは出雲の大神が神尾山におられた。この神は出雲の国*の人でここを通り過ぎるものがあると十人のうち五人をとり殺し、五人のうち三人を殺した。そこで出雲の国の人達は佐比(鋤)を作ってこの岡に祭った。とあります。*出雲の国は、三島(茨木市)、御牧(高槻・枚方)


人を殺したという記述の意味は、道中の峠などで通行に危険な場所であったため死んだ者がいたということです。出雲の大神が、 峠の神、荒魂であり、人々の往来を邪魔する神として登場したのです。


 さいの神は、賽神・幸神・障神・妻神・才神・性神などと書かれたり、岐(くなど)の神、久那土神、神・道祖神、道陸神(どうろくじん)とも同じものと言われています。


さいの神:障(さ)への神となり、、外から侵入して来る邪霊を防ぎ止める神、峠・坂・辻・村境など、境界に祭られた神になっていきます。行路の安全をつかさどり、中国の「道祖」と結びつけて信仰されるようになり、さいの神は、道の神になります。

現在でも、さいの神のことをよく道祖神と表記します。


岐神も道の神です。岐神(クナド、くなど、くなと -のかみ)とは、古より牛馬守護の神、豊穣の神としてはもとより、禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されています。疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神です。


そして「さいの神」は、竈(かまど)の神ともされています。久那土(くなど)は近畿地方でいう「おくどさん」のことです。なぜ道の神が、竈の神になったかというと、台与(豊)が稲作=農耕の神だらかです。兵庫県太子町大字佐用岡(際の岡)には現在、大歳神社があります。大歳=饒速日で台与です。饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作  台与は饒速日②~交野市倉治 第259話:大歳~稲耕の神


つまり、台与(豊)が塞ノ神(佐比の神)だからこそ、製鉄の神、道の神、竈の神となっていったのです。


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<追記>

クナトの神は、船戸の神だとする説もあります。第513話:久延毘古(くえびこ)~山田のカカシでは下記のように書きました。

・衝き立つ船戸の神

「クエビコ」は、「杖彦」が転じたものとも取れ、船戸神*(ふなとのかみ、岐神、道祖神)との関連も考えられています。杖→旅→道の連想から、久延毘古も道の神です。ということは久延毘古もウツシコオということです。この場合、船戸神は道の守り神である道祖神=猿田彦=スサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)となります。

ウツシコオ(内色許男命)はもともと船乗りです。

ヒコサチ:忌部氏(彦幸)~和歌山・名草→ヒコユキ

第267話:岐神~クナトの大神


 関連項目:第268話:サイノカミ(幸の神)はデクノボー  

    :道禄神(どうろくじん:道陸神)第528話:六万体地蔵~天王寺



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




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6 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3日前
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3日前
Rated 3 out of 5 stars.

古代甲賀の有力な豪族が葬られた古墳として、5世紀初頭の野洲川中流域の宮ノ森古墳(湖南市石部)が最も古い。その後、野洲川上流域の水口平野にある5世紀代の泉古墳群(水口町泉)に移り、これは西罐子塚古墳(帆立貝形古墳)、東罐子塚古墳(円墳)、泉塚越古墳(方墳)から構成されている。泉塚越古墳から全国でも二例しか確認されていない金銅装の眉庇付冑が出土しており、ヤマト政権内でも格式が高く、朝鮮半島などの軍事行動に指導者として参加した有力豪族であった可能性がある。後の鹿深臣と重なる部分があり、泉古墳群の被葬者がその先祖とも考えられる。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3日前
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また、男根型に見えてのかもしれません。大地に突き刺すものです。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3日前
Rated 3 out of 5 stars.

磯城氏 : 古代史探訪


 3代安寧天皇の和風諡号は磯城津彦玉手看天皇(しきつひこたまてみのすめらみこと)と云う。弟磯城の多くの子孫が天皇家に后妃として嫁ぐことになる。


 磯城県主大目は製鉄族で十市県主の祖になるが、大目の娘・細媛(ほそひめ、くわしひめ)が7代孝霊天皇の皇后になる。


 シキは鋪、坑で鉱山の坑道(採掘跡)のことである。磯城、志紀、志貴、師木、式、敷などとも書く。磯城氏は金属採掘、踏鞴製鉄の部族であったと考えられる。奈良盆地は踏鞴製鉄に適した絶好の場所であった。


 「大和の国」の枕詞は「敷島の」であるから、磯城は大和の中心地であった。


 三輪山(467m)の西麓、大神神社(おおみわじんじゃ)の南400mに志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)が鎮座、祭神は大己貴神(大国主命)とも天津饒速日命とも云われる。境内に「崇神天皇磯城瑞籬宮(しきみづがきのみや)趾」石碑がある。


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