top of page
  • 執筆者の写真秀丸 遠嶽

大山祇は息長氏

更新日:5月19日

第316話~息長氏は中臣氏?


どうやら大山祇とその娘の細姫(真舌媛:孝霊天皇妃)は息長(おきなが)氏であるようです。真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)


香春神社(かわらじんじゃ)は福岡県田川郡香春町にある神社です。祭神は、辛国息長大姫大目命です。

香春神社の社前には、「第一座辛国息長大姫大目命は神代に唐土の経営に渡らせ給比、崇神天皇の御代に帰座せられ、第二座忍骨命は、天津日大御神の御子にて、其の荒魂は第二の岳に現示せらる。」とあり、また豊前国風土記には、辛国息長大姫大目命は、昔神羅より渡って来た神であると書かれています。


天津日大御神は、近江国野洲郡の三上山の西麓に鎮座する御上神社(現・滋賀県野洲市三上)の祭神で、古事記にも「近淡海の御上の祝(はふり)」(神主)がこの神を奉斎すると記されています。


近江富士としても知られる三上山は、標高400メートル余の円錐形の山で、古来よりで信仰されてきた神体山です。御上神社の社伝では、第七代孝霊天皇の六年に、天之御影神が三上山に降臨し、以来、御上の祝が三上山でその祭祀を務めてきたといい、元正天皇の養老二年(718)には、藤原不比等が勅命を拝して、現在の山麓の鎮座地に遷座した、と伝承されています。


この天津日大御神が大目命でその娘が細姫(マシタ姫:孝霊天皇妃)です。大目は大阪府守口市の大日で、大目命は大山祇であることは既に明らかにしています。


古事記における「息長」の文字の初出は、息長水依比賣です。父は天之御影神の六世孫・国忍富命、夫は日子坐王(開化天皇の子)とされています。


天之御影神は孝霊天皇の頃、加羅から鉱山技術を持って苅田(十市)にやって来たものと考えられます。※(十市は三島です。※注下記)、その後、近江に渡り、腰を落ち着けますこの天之御影神が十市県主大目で、その娘の細媛命が孝霊天皇妃であるマシタ姫です。


鉱山技術を持っているとあることから、天之御影神こと大日彦は大目命=大山祇も大穴持ち=鉱山技術者=大王です。参考:第265話:大山祇は三島(摂津)の王


息長氏は、奈良時代以降は、近江国(現在の滋賀県にほぼ該当する)坂田郡(現在の滋賀県米原市のほとんどと長浜市の一部)を本拠としたとするのが一般的な見解です。息長古墳群からは、相当の力をもった豪族であったことが窺えます。


息長古墳群は滋賀県の天野川流域に分布し4基の前方後円墳はがあります。これらの古墳は5世紀後半代に造られたており、滋賀県の天野川は、大阪府交野市から枚方市を流れる天の川にちなんで天野川としたのでしょう。3~4世紀までは息長氏は三島にいたことになります。


第257話~大和の誕生では大山祇(大日彦)がウガヤフキアエズ(素戔嗚)と細姫=マシタ姫との婚姻で和解したと書きました。


天之御影神の娘、息長水依比売は、第九代開化天皇の皇子、日子坐王と結婚しているとされています。日子坐王は十一人の御子を儲けており、その子孫系譜は古事記の皇族の系譜の中でも特異で、長大なものです。この系譜からは、日子坐王が、息長氏や安直氏、丸邇臣氏などといった近江の豪族らと繋がりを持ち、近江の地に関わりの深い皇子であることが指摘されています。


初代神武天皇の大和の統治権が三輪山の神の娘(伊須気余理比売)との結婚によって確立されたという理解に基づき、日子坐王が近江の三上山の神(天之御影神)の娘(息長水依比売)と結婚したことは、それと同様に近江の統治権の確立を物語っており、近江を中心とする地域の豪族らがこの皇子を中心に結び付くことの根拠になっているとする説があります。


しかし私は、日子坐王の近江での逸話はすべて作り話で、実は中臣氏が近江に進出したことを証明しているのだと思います。

参照:第313話:日子坐王 第263話:中臣氏~中臣烏賊津


息長氏の実態は実態は中臣氏です。神功皇后(気長足姫:おきながたらしひめ)が息長氏であるのも中臣氏=藤原氏の創作によるものだからです。


===================================

※注

・磯城と十市は同じ地を指しています。十市縣主系図によると、十市縣は春日縣の改称であるとされており、磯城・春日・十市縣は同一の地域で、縣主もまた古事記の系譜にあるように磯城氏であったことになります。

・皇統譜の欠史八代がみごとに磯城氏から始まる十市、春日県主の系譜の中に収さまっており、十市=磯城=守口市、春日は茨木市です。欠史八代はヤマト=三島



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。



           三上山(近江富士)


閲覧数:107回1件のコメント

最新記事

すべて表示

1 commentaire

Noté 0 étoile sur 5.
Pas encore de note

Ajouter une note
秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
13 mai
Noté 5 étoiles sur 5.

<邪馬台国の新常識>

ウガヤフキアエズのミコト

邪馬台国の誕生

徐福伝説と「呉の勝」

日向は大阪府守口市

櫛名田比売2~八雲は守口市  

ウツシコオの名前についての弁明

多氏と長脛彦

饒速日と長脛彦

<河川は古代の高速道路>

市寸島比売は厳島!~広島・三島 )

真舌媛は、宗像三女神!~三島(茨木市)

全ての道は三島に通じる。

<欠史八代の天皇の正体>

素戔嗚(スサノオ)は、孝霊天皇

丹・朱を求めた天皇たち

<大彦>

大国主は、大彦 

大彦

大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村

大彦の北陸道遠征

大彦~メスリ山古墳: 桜井市

大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4

大国主は、大彦 ~出雲は三島

<卑弥呼>

卑弥呼は名草トベ~和歌山市

卑弥呼は萬幡豊秋津師比売

<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>

ウツシコオは難升米ではなかった?

ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米

八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり

<饒速日>

饒速日は大阪府茨木市出身

星の降る町~速玉は饒速日

伊都国  一大率は五十猛(饒速日)

孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳

五十猛の九州征圧

神功皇后と五十猛

饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀

孝元天皇と家族たち

饒速日はスサノオの子

<タケハニヤスの乱>

タケハニヤスの乱1 

タケハニヤスの乱2 ~阿太(奈良県五條市)

タケハニヤスの乱3 ~小人国

タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇

タケハニヤスの乱最終章

J'aime
bottom of page