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tootake

小説 邪馬台国前史~船

更新日:4月9日

第117話 


 BC213年和歌山県名草  


水平線のかなたに、白い点があらわれた。彦幸(ヒコサチ)は、名草山を大急ぎで駆け下った。

「姉様、おとうが帰ってきよった。」彦幸は、山の麓にある大きな屋敷に駆け込むと大声で言った。

「わかっとる。大声を出さんでもええわ。」そういいながらも、嬉しそうに裸足のまま渚姫は家の外に出て船着き場に駆け足で向かった。

渚姫は、神は茶色がかっており、鼻は高く目も青く、異国人を思わせる。賢そうな顔立ちだ。彼ら一族は、遠く海を経だてた国から来た集団で呉の勝(スグリ)と呼ばれている。

点は白い塊となり船団であることが確認できる。大きな帆の形もはっきりと見える。小半時もしないうちに、名草の浜に碇を下した。

舟から降りて来た父親に飛びつこう駆け寄った彦幸は思わず足を止めた。父親の隣に背の高い髭をぼうぼうに蓄えて大男がいたのだ。恐ろしい空気を漂わせていた。

「大歳どのや」父が言った。「ちゃんと挨拶せえ」

彦幸が恐る恐る近づくと大男は、とたんにニコっとした。吸い込まれるような笑顔だ。

「賢そうな子やな。舟には乗らんのか」

「帆は操れます」彦幸は大声で答えた。

「そうか、今度は阿波に行くさけ、連れていっちゃる」


 渚姫16歳、彦幸14歳  大歳27歳   <続く


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五十猛(饒速日)の紀伊国統治地域は名草(なぐさ)郡でした。郡名の由来について紀伊続風土記に「ある説では渚の意味なり」と記されている。


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<帆>


弥生時代まで、丸木舟のような非常に不安定な船で、古代日本人は朝鮮半島や中国との交易をしていたと思われます。帆の無い舟で手漕ぎの丸木舟で対馬海峡を渡るためには、潮流を読む必要があり、「潮待ち」をして絶好の時期・時間を見定め、対馬・壱岐島を渡っていたものと考える研究者もいます。丸木舟であれば大破することがありません。しかしまた、日本の古墳時代の埴輪の形状に基づく古代船の原状のままの復元・走行実験で対馬海峡横断には使い物にならないことが証明されています。


古墳時代には帆船があったことは証明されています。今まで国内で出土した準構造船は内航船であり、外航船としてはやはり帆が必要だと思われます。神武東征で、手置帆負命なる人物が名草の彦佐知命と並んで登場しています。手置「帆」と名前に帆が入っています。


中国では弥生時代後期には確実に帆船(ジャンク船)がありました。播磨国風土記には、こんな記述があります。「太田と称するわけは、昔、呉の勝(スグリ)が韓の国から渡ってきて、はじめ紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田の村に着いた。」名草の太田にで韓=中国大陸からの移住者で、帆船(ジャンク)に乗って和歌山県の名草にたどり着いたと思われます。


中国では「紀元前三世紀頃になると、船底には竜骨を使い、横隔壁を設け、木甲板を張って船全体を水密・強固にした渡海船が建造された。推進には櫂と帆を併用するようにしている。」日本まで渡海は可能性でした。

https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12059131846.html


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。






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tootake
Oct 11, 2023
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