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川上梟帥はスサノオ

更新日:10月2日

第457話 #川上梟帥 #邪馬台国 #ヤマトタケル #ニギハヤヒ


熊襲の首長である川上梟帥(かわかみたける)の母は奈留多比売(なるたひめ)です。別名は諏訪大社の祭神である建御名方の妻の八坂刀売神です。

この奈留多比売の母は雨宮姫で雨宮姫の母は阿蘇津比売、その母は栲幡千々姫、そして、父は鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえず)だそうです。

出典:大和町史P.657〜658 川上たけると真手 | さがの歴史・文化お宝帳より


・阿蘇津比売は台与(トヨ:豊)です。第428話:阿蘇都媛は台与

・栲幡千々姫は卑弥呼です。参照:第72話:卑弥呼は萬幡豊秋津師比売

・ウガヤフキアエズはウツシコオ=スサノオです。

 参照:第256話ウガヤフキアエズのミコト 第413話藤森神社と志賀海神社

・建御名方もウツシコオです。参照:第312話:宗像氏はタケミナカタ!

  ということは、川上梟帥はウツシコオということになります。


・熊襲建(クマソタケル)こと川上梟帥は小碓命(ヤマトタケル)に殺されます。

熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていました。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、川上梟帥に刃を突き立てます。刺された川上梟帥弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じます。


・ヤマトタケルは台与です。第439話:ヤマトタケルは台与

前回:ウマシマジは台与! では、ウマシマジがなぜ叔父である長髄彦(ナガスネヒコ)を殺したかはずっと謎でしたが、両親の仇を討ったということであれば納得できます。と書きました。

・長髄彦はウツシコオ=スサノオです。参照:長脛彦の物語


こうして台与は、見事に両親の仇を討ったのです。


第404話:熊襲建=川上梟帥とヤマトタケルでは、小碓尊は美少女に変装して、熊襲タケルに近づいたと書いてありますが、巨漢の小碓尊がどうして童女となれたかは疑問です。

と書きました。この記事をかいたときは、私はヤマトタケルはウツシコオ=スサノオと思っていたのです。が、ヤマトタケル=台与は元々少女だったのです。


そして第404話では「妄想ですが熊襲タケル=川上梟帥(カワカミタケル)は饒速日(ニギハヤヒ)ではないでしょうか。」と書きました。饒速日(ニギハヤヒ)は河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨したとされています。河上の哮ヶ峯は川上(カワミカ)と哮(タケル)が揃っています。河上の哮ヶ峯は大阪府交野市です。現在の磐船神社周辺の地域です。ですから熊襲タケル=川上梟帥を殺したという話は九州ではなく、物部(片野物部)の本拠地である交野市で起こった事件だと思われます。参照:第447話:小楯姫は台与:小楯は枚方


しかし、川上梟帥(カワカミタケル)が饒速日だとすると上記の話はすべて破綻します。なぜなら、台与は饒速日の娘だからです。上記の話はかたき討ちの話ではなく、親殺しの話になってしまいます。


小碓皇子に名前を譲った後、川上梟帥はどうなったのでしょうか?

実は川上梟帥は川上峡で誅殺されておらず、背振を越え早良で母の奈留多比売(八坂刀賣神)と共に新天地に旅立ったという伝承が存在します。出典:川上梟帥(取石鹿文) | 神話を科学する(古代史探訪) (kouratamadare.com)


だとすると台与は、饒速日(孝霊天皇)=ウツシコオ=スサノオに禅譲を迫ったのでしょうか。これが第373話:孝霊天皇クーデター事件の真相かもしれません。第450話:両道入姫命と朝廷別王 では「禅譲だとすれば饒速日は殺害されなかったと思われます」と書いています。さらに検証を重ねます。




※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>





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