第547話 #武埴安彦命 #卑弥呼 #タケハニヤスの乱 #邪馬台国
武埴安彦命(タケハニヤス)については、今までこのブログで何度も書きました。
タケハニヤスの乱3 ~小人国 :タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇 タケハニヤスの乱最終章
日本書紀:崇神天皇条によれば、大彦命が北陸への派遣途中で不吉な歌を歌う少女に出会ったため、大彦命は引き返して天皇にこのことを報告したとあります。このタケハニヤスの乱も作り話でしょう、第290話:陰謀を伝える歌は嘘のあかしでは誰かが反乱を起こす計画をすると決まって第三者(子供が多い)が歌を詠み、反乱を未然に防ぐのです。これはどういうことかというと、ありもしない作り話に信憑性を持たせるための記紀の作者の小細工です。と書きました。
しかしこのタケハニヤスの乱は、全くの作り話というには、結構詳細に書かれています。この乱での戦に出てくる地名がリアルです。鵜殿の渡し、樟葉の渡し、祝園(ほふりその)、武埴安彦破斬旧跡(京都府精町)など今でも実在する地名が多数登場しています。~鵜殿の渡し:豊葦原中国:とよあしはらのなかつくに
邪馬台国の時代に本当に大規模の戦闘があったと思われます。
魏志倭人伝には次の記述があります。
正始八年(247年)、倭女王の卑弥呼と狗奴国の男王、卑弥弓呼素とは和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあっている状態であることを説明した。(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書、黄幢をもたらして難升米*に授け、告諭す。とあり、その後に、卑彌呼以死と書かれています。*難升米はスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)です。
第366話:狗奴国と女王国では狗奴国の男王:卑弥弓呼はスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)で女王国の女王は卑弥呼(ウツシコメ:欝色謎命)としました。この狗奴国と女王国との戦いがタケハニヤスの乱として日本書紀に記述されたのではないでしょうか。
タケハニヤスが戦死する場面では、そこでタケハニヤスは矢を射ったが、オオビコの軍には当たらなかった。次にヒコクニブクが矢を射った。するとその矢はタケハニヤスに当たり、そのまま死んでしまった。という記述があります。
これに似た話があります。
馬子と聖徳太子は物部討伐を決め、大軍を起こして守屋の本拠河内国渋川郡へ向かった。軍事氏族の物部氏の兵は精強で稲城を築き頑強に抵抗し、守屋は朴の枝に登って雨のように矢を射かけた。討伐軍は3度撃退されてしまう。従軍していた厩戸皇子は市天王像を刻んで戦勝を祈った。討伐軍は奮い立って攻め立てた。赤檮は守屋のいる大木の下に忍び寄り、守屋を射落とした。とあります。また物部の守屋は洩矢(流れ矢)に当たって死んだともされています。
諏訪大社で物部守屋は洩矢神として祀られています。物部守屋は蘇我馬子・厩戸皇子軍の放った流れ矢(洩矢)に当たったのです。~第544話:物部守屋雑記
諏方大明神画詞を記した諏訪(小坂)円忠の諏方大明神講式では「彼ノ物部守屋者、佛法之怨敵也。(中略)此ノ山家洩矢者、神明之敵也。(物部守屋は仏法の敵で、洩矢神は神明の敵)」と記されています。また守屋山も「洩矢嶽」という表記がなされています。
タケハニヤス=卑弥呼=物部守屋
崇神天皇軍=蘇我馬子・聖徳太子軍=スサノオ・台与軍ということではないでしょうか。
藤原不比等は、狗奴国と女王国との戦いを参考にしてタケハニヤスの乱を創作したのだと思われます。~第532話:稗田阿礼は藤原不比等?!
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけ!??としています。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
紀きの長谷雄はせおが、『竹取物語』の作者ではないかと考えていたが、その後、弘法大師・空海という事が判ってきた。
京田辺市の山本区周辺には、『竹取物語』にちなむ地名として前記の「山本」の他「山崎」「筒城」「筒城宮」「多々羅」「甘南備山」「月読神社」が存在し、神仙思想が溢れていて天女伝説を兼ね備えた地域である。
『竹取物語』発祥の地は”京田辺” その二。「竹取の翁」の家は、「山もと」の近く『古事記』垂仁記に「大筒木垂根王之女、迦具夜比売命」が記されていて「かぐや姫」は実在の人物であった。 京田辺市普賢寺の「大筒木垂根王」か山本駅の駅長それに延喜式内佐牙神社の太夫が、『竹取物語』に登場する翁であり山本駅一帯が“竹取物語の里”と考えている。
高麗寺の呼称は 9 世紀に書かれた仏教説話集『日本霊異記』中巻第 18 話に見ることがで き、周辺には、「上狛」や「下狛」のように「狛」をともなう地名を遺しています。4~7 世 紀に朝鮮半島北部を支配した高句麗から渡来した氏族狛(高麗)氏と関係する寺院と考えら れています。伽藍配置は東に塔、西に金堂を配する法起寺式で、背後の講堂から両翼に延び た回廊は塔・金堂を囲み中門に至りますが、南門・中門・金堂が南北一直線に並ぶのが特徴 です。
高麗寺の伽藍は大規模な修理が奈良時代末から平安時代前期におこなわれましたが、鎌 倉時代には完全に姿を消したと考えられます。
「大依羅神社」の社名の「依羅 よさみ 」は地名を指す。
「依羅」は『和名抄』摂津國住吉郡「大羅郷 おおよさみのさと 」~河内國丹比郡「依羅郷 よさみのさと 」一帯を範囲とする地名であったとされている。「大羅郷」は神社付近の地を指し、「依羅郷」は大阪府松原市北西部付近とされている。
この依網地域の古代豪族として「依羅氏 よさみうぢ 」が知られ、「依網氏」とも「依網我孫 よさみのあびこ 」とも称され、この原始的カバネとされる「我孫 あびこ 」を持った氏族が居住したことが神社周辺一帯=あびこの理由らしい。
依網池は、ヤマト王権により農地開拓のため築造された大規模なため池だったが、現在は消滅し、ため池だった面影もない。上画像のように「依網池址」のみ確認できる。
また、『日本書紀』仁徳紀、皇極紀には「依網屯倉」の記載あり、が、『和名抄』では河内國丹比郡「三宅郷 みやけのさと 」が見え、一帯は依網池の築造に伴って屯倉 みやけ も設置されるような重要地だった。その地に鎮座する「大依羅神社」もまた朝廷から重要視され、朝廷から幾度も奉幣を受けている。
逆天無道と『紀』が記す「武埴安彦命」は、本当に叛逆者だったのか : 神社から考える古代史ー日子坐王ノート