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猿田彦は塩土老翁神

更新日:3月11日

第251話~ウツシコオは猿田彦


全国の白鬚神社の祭神は猿田彦がほとんどですが、ごくまれに猿田彦ではなく塩土老翁を祭神としている例が見られます。

塩土老翁神を祀る著名な神社としては、宮城県塩竈市の鹽竈神社が挙げられています。

鹽竈神社縁起の中には、「塩釜六所明神或曰猿田彦事勝國勝塩土老翁岐神興玉命太田命六座同体異名神也」とあり、鹽竈神社の別宮に祀られている神(塩釜六所明神)は、猿田彦、事勝國勝、塩土老翁、岐神、興玉命、太田命の6座と同体異名の神であるとされています。この6坐の神はすべて紀ノ國の名草の太田と関連がある人物です。太田市と遺跡 ~呉の勝

また神田明神末社の籠祖神社では猿田彦大神と鹽土翁神が共に祀られていることなどから、塩土老翁神は猿田彦神と関係の深い神であるということが指摘されています。


奈良県吉野郡下市町阿知賀字中屋にある白髭神社の地域は、岡峰古墳から出土した6世紀後半の日本最古の唐草文様の「黒漆太刀」が見つかったことから、最も早くに拓けた場所の一つとされています。この地域には、先進の文化と技術を携えて列島に渡来して来た人々が定住していたと考えられています。この神社から、この地域に渡り来た人々の出自を想像すると、古代朝鮮三国からやって来た人々だと考えられています。


高天原から葦原の中つ国までを照らす神がいた。その神は国津神の猿田毘古神で、天津神の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たのであったと書かれています。

塩土老翁は神武東征の際の水先人です。塩土老翁は、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っています。日本書紀の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとあります。


上記より猿田彦と塩土老翁は同一人物である可能性があります。塩土老翁神は猿田彦、太田命と同体異名の神とされています。また、江戸時代の雍州府志では、伏見稲荷の上社の神を「大田命」(おおたのみこと)としている。この神は猿田彦神の子孫で、伊勢の五十鈴原の地主神です(猿田彦神の別名ともいわれる)。 同じく江戸時代の神社啓蒙では、上社の神は「土祖神」(つちのおやのかみ)としている。土祖の土は塩土老翁神の土です。



私は、ウズヒコ、シイツネヒコ、サオツネヒコは同一人物で実は、ウツシコオだと思っています。そしてさらに塩土老翁(シオツチオジ)もウツシコオではないかと思います。

塩土老翁~浦島太郎2 とすでに書いています。


紀ノ國の名草の太田は、呉の勝 (古代朝鮮三国からやって来た人々)が最初に居ついた場所です。ウツシコオは魏の言葉を自在に話せた理由もウツシコオ自身も呉の勝だったからです。ウツシコオは長脛彦=大物主です。大物主は長脛彦

大物主は多氏です。太田氏です。太田命の6座の太田です。ウツシコオは猿田彦です。登美氏(富氏)は多氏(おおし)ではないかと私は考えています。大氏は日本最古の皇別氏族とされています。「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、多氏のうち、畿内の本流一族は大和国十市郡飫富郷に住み、古事記の編者である太安万侶もこの一族です。そして、多氏は神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされています。


<後記>

倭姫命世記でも「猿田彦神の裔宇治土公氏の祖大田命」とあり、大田命の祖を猿田彦命としています。伊勢の猿田彦神社の宮司は宇治土公(うじつちのきみ)という氏姓です。ウジはウツシコオの内と同じ意味です。内里のことです。北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられています。宇治市史 1(宇治市役所、1973年)


※塩土老翁の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」という意味で、塩土老翁神は潮流を司る神、航海の神ということです。



<多氏については下記でも説明しています。>


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。



        猿田彦


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
08 mars
Noté 5 étoiles sur 5.

妻:日向賀牟度美良姫(ひむかのかむとみらひめ)[3]

  • 第1子:健飯勝命(たけいいかつ の みこと/たけいいかち の みこと)[3]

この文章をよく見ると、

「健飯勝命は片鹽浮穴宮天皇て゛安 寧と言う。渟中底?命は成本の軽地曲狭宮に住んて゛いた。」

1)子供に安寧自身か゛記 述されたこと、

2)渟中底?命の母は日向賀牟度美良?た゛と記述された


『先代旧事本紀』

「三世孫 天日方奇日方命 亦名 阿田都久志尼命 此命娶日向賀牟度美 良? 生一男一女 兒 健飯勝命 妹 渟中底?命 此命 片鹽浮穴宮天皇 安寧 片鹽浮穴宮 或本 坐輕地曲峽宮 立為皇后 誕生四兒 即 大日本根子?耜友天 懿德 次 常津命 次 磯城津?命 次 手研?奇友背命也」

とあり渟中底?命といい、天日方奇日方命の娘。 訳して行くと 『三世孫て゛ある天日方奇日方命・またの名阿田の久志尼命は、妻の日向の賀牟度美良?と の間に子供か゛一男一女か゛生まれた、子を 健飯勝命 妹は 渟中底?命て゛ある。この命は片鹽 浮穴宮天皇(安寧) 片鹽浮穴宮(別名は記述されす゛) 成本に住まいそこは輕地曲峽宮と言 う。皇后に立てられ4児か゛誕生したすなわち大日本根子?耜友天 懿德 次 常津命 次 磯城 津?命 次 手研?奇友背命た゛。』

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
06 mars
Noté 5 étoiles sur 5.

猿田彦命と事代主命の関係

 三輪高宮家系譜では猿田彦命の子が事代主命となっている。この可能性は考えられないだろうか。ここでいう事代主命は賀茂建角身命の娘玉依姫と結婚している。また、大山咋命が玉依姫と結婚したと伝わっている。このことから事代主命=大山咋命となる。

 京都府亀岡市の桑田神社・請田神社においては大山咋命が市杵島姫と共に亀岡盆地を開拓したと伝えられている。また、松尾大社でも大山咋命と市杵島姫が共に祭られている。大山咋命と市杵島姫はどのような関係にあるのであろうか。市杵島姫は猿田彦命の妻であった。このことは、 奈良市今御門町一番地の猿田彦神社で市杵島姫が妻神として祭られている事からわかる。このことと三輪高宮家系譜をつなぐと事代主命は猿田彦命の子となるのである。


岐の神(クナド、くなど、くなと -のかみ)


名前の「御」は敬称で、「毛」は「食物」、「沼」は「主」を意味するとされる[1]


『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギ笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝国勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。

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