第198話
太秦(うずまさ)と言えば、誰しも広隆寺や東映時代劇村のある京都の太秦を思い浮かべるかもしれません。しかし太秦は私の住む枚方の隣の寝屋川市にもあります。〒572-0849
秦氏は、応神天皇14年(283年)に百済より百二十県の人を率いて帰化したと日本書紀には記されています。葛城襲津彦の支援によって日本へ渡ると、葛城氏の本拠地である葛城に住みその後、各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えました。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされています。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国では創建が最古の神社となっており、秦氏の末裔はこれらの社家となったとの説もあります。
寝屋川市の太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土しています(太秦古墳群)。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとした調査結果があります。
秦氏は、葛城襲津彦の支援によって日本へ渡ったとされていますが、葛城襲津彦の武内宿祢の子です。武内宿祢は孝元天皇の皇子の彦太忍信命の子で、彦太忍信命は孝元天皇の伊香色謎命(イカガシコメ)なのです。イカガシコメは私がこのブログを書くきっかけとなった人物であることは、何回も述べています。イカガシコメの子はミマキイリヒコ=崇神天皇にほかなりません(注:崇神天皇は開化天皇とイカガシコメの子です)。伊香色雄命(イカガシコオ)~枚方市伊加賀
太秦は「うずまさ」とは、秦氏が機織りの技術者集団であったことに由来し、絹布を「うず高く積んだ」ことから、朝廷から「兎豆満佐(うずまさ)」の姓を与えられたとかんがえられています。ここで思い出されるのが卑弥呼です。卑弥呼は萬幡豊秋津師比売命!!
萬幡豊秋津師比売命という名前を検討してみますと、「萬幡」は「多くの布帛」、「豊」は「多く」、「秋津」は「蜻蛉の羽のように薄い上質なもの」、「師」は「技師」(織女)と考えられます。「多くの布帛で、多くの蜻蛉の羽のように薄い上質なものを作る織女」と考えられます。卑弥呼は大の衣装好きだったのです。
秦氏を日本に招いた葛城襲津彦とは、卑弥呼(ウツシコメ)の弟のウツシコオ(内色許男命)だったのではないでしょうか。邪馬台国異聞2~馬と呉服 (hidemaru3375.com)
※これまでの記事はこちらです。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。
熱田神社(寝屋川市 太秦中町)~古代寺院跡の古い瓦や礎石に使われた巨石が出土する太秦に鎮座する神社。
<大彦>
天香語山命~大彦も五伴緒のメンバー
大彦
大彦は、高倉下~新潟県西蒲原郡弥彦村
大彦の北陸道遠征
大彦~メスリ山古墳: 桜井市
大彦は、綏靖天皇~タケハニヤスの乱4
大国主は、大彦 ~出雲は三島
<卑弥呼>
卑弥呼は名草トベ~和歌山市
卑弥呼は萬幡豊秋津師比売
卑弥呼はイカガシコメ??
<ウツシコオ(内色許男命)=大綜麻杵(オオヘソキ)>
ウツシコオは難升米ではなかった?
八咫烏の真実~ウツシコオ陰謀の始まり
ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米
<饒速日>
饒速日は大阪府茨木市出身
星の降る町~速玉は饒速日
伊都国 一大率は五十猛(饒速日)
孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳
五十猛の九州征圧
神功皇后と五十猛
饒速日が死んだ!~ウツシコオの陰謀
孝元天皇と家族たち
饒速日はスサノオの子
<五十鈴姫=媛蹈鞴五十鈴媛=富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライスズキヒメ>
ミマキ姫は、五十鈴姫~茨木市五十鈴
とよ(五十鈴姫)~桜井、豊中
お多福さんと五十鈴姫
金屋子神は五十鈴姫