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継体天皇はスサノオ

更新日:7月25日

第386話~隅田八幡神社人物画像鏡


継体天皇は507年に57歳で即位されたとされています。その即位の年代の根拠は、隅田八幡神社人物画像鏡です。


隅田八幡神社・人物画像鏡(すだはちまんじんじゃ・じんぶつがぞうきょう)は、和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵する銅鏡です。鏡背の48字の金石文は、日本古代史、考古学、日本語学における貴重な資料で国宝に指定されています。


人物画像鏡は青銅製は、古い時代に出土したものであることは確かですが、正確な出土年代や出土地は定かではありません。鏡背は円形の鈕を中心に、内区には古代中国の伝説上の人物である東王父・西王母(とうおうふ・せいおうぼ)など9名の人物を表し、その周囲には半円形と方形からなる文様帯、その外側には鋸歯文(きょしもん)を表し、周縁部には漢字48字からなる銘を左回りに鋳出しています。


人物画像鏡には、次のように書いてあります。

「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟」

癸未(きび、みずのとひつじ)の年八月 日十大王の年、男弟王が意柴沙加(おしさか)の宮におられる時、斯麻が長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わして白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。


「癸未年」がいつに当たるかについては多くの説がありますが、西暦443年とする説、503年とする説が有力です。斯麻(しま)、開中費直(かわちのあたい、河内直、加不至(カフチ))、今州利はそれぞれ人名と解釈されています。


癸未年は干支ですから120年で一回りします。継体天皇は507年に57歳で即位したとされていますから、450年に生まれたことになります。干支を二回つまり240年引くと210年の生まれとなり、邪馬台国の時代にぴったり合います。その場合、継体天皇はウツシコオとなります。*下記注


ウツシコオが魏に行ったのは239年ですから、ウツシコオが29歳です。ちょうど良い年齢です。


前回で彦主人王は近江国(滋賀県高島市)安曇川町三尾〒520-1215あたりにいたと書きました。近江の三尾氏に関しては、多くの製鉄遺跡が残っていることから製鉄の技術集団であったことがわかります。安曇川という地名からも、安曇族ゆかりの地であることがわかります。ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王

は、安曇族です。第314話: 海人族~ワタツミ 第315話:阿曇磯良は天児屋根命


三尾氏は渡来系の氏族と考えられています。滋賀県高島市鴨*にある鴨稲荷山古墳からは豪奢な副葬品が発掘されているが、その多くは朝鮮半島系である。*鴨はウツシコオのことです。


人物画像鏡には、「斯麻」が鏡を作らせて「男弟王」の長寿を祈ったという内容の文字が刻まれています。この「斯麻」は百済の武寧王で、「男弟(おおと)王」は、継体の名前「男大迹(おほど)王」と推定されています。つまり「503年に百済の武寧王が即位前の継体天皇に、長寿を祈って贈った物」と解釈されています。しかし、そうすると、次の特異な点が浮かび上がります。

・百済の王が自らに「王」をつけず名乗りをしている

・即位前の継体に長く奉えることを願っている

・百済の王が礼をもって日本の即位前の王に貴重な贈り物をしている


武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年→221年)条に、百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の昆支王倭国に貢る際、自身のすでに妊娠した婦を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王であるとしている。また、即位については武烈天皇紀4年(502年)是歳条には百済の末多王(牟大、東城王)が暴虐であったので、百済の国人は王を殺し、嶋王を立てて武寧王としたとしている。武寧王 - Wikipediaより引用


上記によると嶋君が武寧王ということになりますが、斯麻(シマ)とは、島=三島(大阪府茨木市)のことでしょう。嶋王を武寧王としたのが502年(実は262年)、継体天皇が即位したのが、507年(実は267年)です。


嶋王(百済の王))=三島(邪馬台国)の王は味饒田命(うましにぎた)ではないでしょうか。代旧事本紀によると、阿久斗比売と物部氏に連なる豪族の阿刀氏は味饒田命(うましにぎたのみこと)を祖とすると伝えられています。味饒田命の弟がウツシコオ(内色許男命)です。参照:味饒田命はウマシマジ


だとすると男弟王という意味が分かります。嶋王の弟が男弟王で継体天皇です。

海部氏勘注系図に登場する乙彦命(おとひこのみこと)は孝元天皇とする説がありますが、

乙(おと)は弟のことです。つまり乙彦命は男弟王で継体天皇です。


継体天皇=ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王ということになります。


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*注~干支を二回つまり240年も繰り下げるというのは、強引ですが、記紀でも神功皇后を創作する際に、干支を120年繰り下げて、無理やりに邪馬台国=卑弥呼の時代にあわせています。この手法は古代史の研究者たちもやっています。「癸未」という年号は、BCで何年になるのかは、諸説があり、学者たちでも決定的なことは言えないのです。


◎前回で書きました継体天皇の父はウツシコオ 彦主人王=ウツシコオは、継体天皇の父ではなく、ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王本人です。こういうところが記紀のトリックです。



※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>



武寧王の肖像


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3件のコメント

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ゲスト
7月31日

継体天皇は異色の存在と言われているようですね。

大和の生まれでなく越前国の出身だったようで、

しかも第25代武烈天皇の子でも孫でもなく、

皇統断絶の危機ってことで、

応神天皇5世の孫であるオオドに白羽の矢が立ち、

天皇として迎え入れられたとのこと。

いかにも血が薄いですね。

武烈の本拠地が大和国であったにもかかわらず、

なぜ河内国で即位したのか?

反対勢力が大和で頑張っていたからか?

とにかく大和に入ったのは即位20年後だったようですね。

中国に「継体持統」という言葉があるようです。

「体を継ぎ統を持す」つまり「国家を継受し血統を保持した」。

「継体」とのちの「持統」の両天皇には、

「国家を継受し血統を保持した」という共通の功績があったということでしょうか?

とにかく「天皇の曾孫の孫」なので、

天皇家の正統な後継者でない人物が天皇になったってこと?


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
7月21日
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