第17話
高槻から茨木にかけての三島の地は、235年の銅鏡が出土した安満遺跡や、銅鐸の一大生産地であった東奈良遺跡など作れるほど大きな勢力があったのは確かです。
ところで阿武山(あぶやま)の麓に、阿為神社の周辺、安威古墳群*があり、ここには、古墳時代前期の前方後円墳と、古墳時代前期と後期の円墳が20ほど確認されています。なぜか、二つの時代のあいだの古墳時代中期のものは存在しないのです。三島野の古墳群もそうです、弁天山古墳が作られてから空白があり継体天皇陵が作られるまでおおよそ150年間の空白があります。
*大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある古墳。国の史跡に指定されている。昭和初期に地下から古代の貴人の埋葬遺体が発掘され、被葬者を藤原鎌足(中臣鎌足)に比定する説が知られる。
なぜでしょうか。ヒントは崇神記に書かれている疫病の流行と民の流出です。疫病はすさまじく何年も続き民の半分が亡くなった伝えられています。
「近習者を集めて、生きたまま陵のまわりに埋め立てた。何日も死なず、昼も夜も泣き叫んだ。ついに死んで腐った死体は、犬やカラスがついばんだ」
との記事が日本書紀にありこれは殉死者の記事と思われていますが、妄想を働かすと感染防止の処置だったのかも、、、、なぜなら日本では殉死者の痕跡がある古墳は一つもないからです。
卑弥呼も頼りのウツシコオ(オモカネ:思)死んでしまいました。崇神は、イカガシコオに命じ大田田根子なる人物を探させ、奈良盆地の三輪山の麓に大神神社を作りらせたとあります。そして奈良盆地へと移住していったのです。
なお銅鐸が三輪山の麓で廃棄されているのが発見されていますが、このことも疫病と民の流失との関連が十分に考えられます。
※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
※これまでの記事はこちらです。
菟道稚郎子(うじの・わき・いらつこ) 稚郎子以外の3名はいずれも「王」とも表記されており、皇位継承者に付される「命」ではなく「王」に近い用法と考えられている[7]。
出石のココロの妻 ニイカワのヲタテ姫
新川 (木津川市) - 京都府木津川市を流れる淀川水系木津川支流の一級河川。
新川 (東大阪市) - 大阪府東大阪市を流れる淀川水系恩智川支流の一級河川。
新川 (高槻市) - 大阪府高槻市を流れる淀川水系芥川支流の河川。
高槻市南庄所町 津之江公園
記紀の仲哀天皇と神功皇后の所の解釈
仲哀天皇は長門豊浦宮から下関をうかがう態勢にあり、一方、息長一族は但馬からさらに海路、対朝鮮交易ルートを確保しょうと西下の途上にあった。そこで下関から出雲を押える新羅系のイツツヒコ王国に対する攻守同盟が、息長一族と豊前-長門の仲哀一族の間に結ばれ、両者は協力して、イツツヒコの王国を亡ぼした。当時のあり方からして、この攻守同盟 には、血による固め、政略結婚が伴っていたであろう。それが仲衷と息長帯比売(神功皇后)の結婚として伝えられたのだ。
さて、それでは強勢を誇っていたイツツヒコの王国は、どうしてこの新興勢力の前に敗れ去ったのだろうか。一つは、もちろん中九州豊前からと、東の但馬からとはさみ撃ちにあったためだろう。もう一つの理由は、出雲をいったん支配下におさめたとはいっても、出雲人が完全に屈服したとはいえない。先にイツツヒコが出雲を征服したときの話であろうとし た、三穂津姫と大物主の結婚譚も出雲の豪族の主権をある程度認めて、結婚による同盟という形で出雲を勢力圏に取り込んだわけであるから、出雲の豪族たちはかなりの主体性を保持していたのだ。
古墳文化からいっても、出雲は四世紀を通じて方墳、前方後方墳が圧倒的で、その独自性を誇示している。したがって、下関政権が守勢にまわったとき、出雲は簡単にそれを見限ったであろう。出雲が離反してしまえぼ、息長一族と仲哀一族連合に、下関勢は抗すべくもない。「仲哀天皇紀」に、下関のイトテがなんの戦闘もなく降服したように描かれているの は、案外事実であったのかもしれない。
しかし、そのようにイツツヒコの王国が弱体化してしまうのには、一つのステップがあったらしい。それは『三国史記』の次の記述からうかがえる。
訖解尼師今 三十五(三四四)年
春二月、倭国遣使請婚、辞以女既出嫁。
同三十六(三四五)年
二月、倭王移書絶交。
同三十七(三四六)年
倭兵猝至風島、抄掠辺戸、又進囲金城、急攻、王欲出兵相戦、伊伐
慶尚北道、後の新羅の領域に入る伊西国からイツツヒコが下関に渡来し、さらにそこを根拠地として出雲までを勢力圏におさめた。それに対して大和や北陸の政治集団の指導者は、もとをたどれば加羅系である可能性が強く、少なくとも、文化的に加羅と密接な関係にある人びとだった。当時の崇神朝とイツツヒコの対立の図式は、半島での弁韓と辰 韓の民族的・文化的な差異・対立に一面由来するといえる。
そのように考えると、『曰本書紀』また『三国史記』 の倭と半島との関係の記事がじつに明快に読み解けるようになる。たとえば、三世紀末から四世紀前半にかけての、『三国史記』「新羅本紀」 にみえる次のような一連の倭国関係の記述である。
儒礼尼師今四 (二八七) 年
夏四月、倭人襲一礼部、縦火焼之、虜人一千而去。
同六 (二八九) 年
夏五月、聞倭兵至、理舟楫、繕甲兵。
同九 (二九二) 年
夏六月、倭兵攻陥沙道城、命一吉
同十一(二九四) 年
夏 倭兵来攻長峯城、不克、
同十二 (二九五)年
春、王謂臣下曰、倭人屡犯我城邑、百姓不得安居、吾欲与百済謀、一時浮海、入撃其国、如何、舒弗邯弘権、対曰、吾人不習水戦、冒険遠征、恐有不測之危、(以下略)
同十四(二九七)年
伊西古国来攻金城、我大挙兵防御、不能攘、忽有異兵来、其数不可勝紀、人皆珥竹葉、与我軍同撃賊、破之、(以下略)
基臨尼師今三(三〇〇)年
春正月、与倭国交聘、
訖解尼師今三(三一二)年
春三月、倭国王遣使、為子求婚、以阿
同三十五(三四四)年
春二月、倭国遣使請婚、辞以女既出嫁、
三十六(三四五)年
二月、倭王移書絶交。
三十七(三四六)年
倭兵猝至風島、抄掠辺戸、又進囲金城、急攻、王欲出兵相戦、伊伐
邪馬台国外伝
応神天皇 十巻十二支は120年で一回り、従来の推定されている年号を120年まえにずらす。
そもそも神功皇后は卑弥呼を想定して書かれたものです。
『日本書紀』では直支王(ときおう)、『三国遺事』王暦では眞支王と記される。夫人は近年の研究で倭人であることが有力視されている八須夫人[2][3][4][5]。子に久尓辛王。
394(274年)年2月に太子に立てられ、397年 (応神天皇8年〔277年→397年〕)に人質として倭国に赴いた(『日本書紀』、『三国史記』共に対応する記事あり)。
397-120=277 277-50=227
阿花王(阿莘王)の時代と推定される。菟道稚郎子の師となり、自分よりすぐれた学者として王仁を推薦し、王仁を百済から渡来させたとされるが、以上の史実性は確かめえない[1]。
阿莘王発音:アシンワン日本語読み:あしんおう阿莘王(あしんおう、生年不詳 - 405年)は、百済の第17代の王(在位:392年 - 405年)。『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王(あくえおう)とされる。諱・諡は『三国史記』には伝わらない。第15代の枕流王の長男であり、枕流王が385年11月に死去したとき、阿莘王がまだ幼かったので叔父の辰斯王が第16代の王位を継ぎ、辰斯王が392年11月に死去して阿莘王が第17代の王位についた。
直支王(ときおう)
倭国との修好を結んで高句麗に対抗しようとし、太子(後の腆支王)を倭国へ人質として送ってもいる。こうして高句麗との戦いは続けられたが、敗戦を重ねるだけであった。
『日本書紀』には「枕流王の薨去の際に辰斯王が王位を簒奪し、後に辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために日本の側は紀角宿禰などを遣わせて譴責したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花を百済王に立てた。」[1]とある。
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:タケハニヤスの乱4~大彦は、綏靖天皇
:タケハニヤスの乱最終章