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tootake

銅鐸から銅鏡へ

更新日:3月22日

第264話


邪馬台国は銅鐸をあがめていた。しかし九州から来た一族、崇神天皇が率いる大和によって滅ぼしたされた。そんな説がかつてありました。しかし、九州の吉野ヶ里遺跡からも銅鐸の鋳型が出土したことでこの説はあっけなく否定されてしまいました。


ではどうして銅鐸は日本から消えてしまったのでしょう。ヒントはまたしても播磨国風土記の呉の勝(スグリ)です。


「太田と称するわけは、昔、呉の勝(スグリ)が韓の国から渡ってきて、はじめ紀伊の国(和歌山)の名草の郡の太田の村に着いた、その後、分かれて摂津の国の三島の賀美の太田の村に移ってきて、それが揖保の太田の村に移住して来た。これは元居た紀伊の国の太田をとって里の名とした。」


和歌山県の太田黒田遺跡(和歌山市=名草)には大和朝廷にとって極めて重要な神社、日前(ひのくま)宮、国懸(くにかかす)宮が並ぶように立地しています。この日前宮、国懸宮のご神体は皇室の神器である八咫鏡に先立って鋳造された鏡です。鏡造りの祖石凝姥命(いしこりどめ)が鋳造したとされています。


このことにより日本で最初に鏡を作った職人は呉の勝を当てて考えることは、それほど不自然な交渉とは言えないだろう。←上垣内憲一著「謎の四世紀」P84~85

摂津の国の三島の太田はご存じ東奈良遺跡があります。銅鐸の鋳型も多数出土しています。上垣内憲一先生は、弥生時代末期に青銅器製造の中心地だった場所に、新しい鏡の作り方をもたらしたのが、呉の勝だったのではないかと考えられるとされておられます。


播磨の太田は、姫路の太子町です。ここの太田も古代遺跡の多いところで付近の綾部山39号墳からは、画文帯環状乳三神三獣鏡が副葬されています。


第257話~大和の誕生:磯島では以下のように書きました。


三島はもともと大山祇の支配地であったところウガヤフキアエズが和歌山県の名草からやって来たのです。多分、紛争(戦闘)もあったのでしょう。魏志倭人伝には2世紀後半に倭国の大乱があったとされています。最終的に大山祇とウガヤフキアエズ(素戔嗚=孝霊天皇)が和睦します。大山祇の娘の細姫(真舌媛)を素戔嗚に嫁がすことで和解したのです。日本書紀で孝霊天皇の皇后は第2の一書では大目の子である真舌媛(ましたひめ)としています。味舌(ました)は摂津市の地名で、大目は守口市の大日であることはこのプログで何度も書いて来ました。いずれも淀川に隣接しています。真舌媛は、宗像三女神! 


つまり大山祇=大日彦を中心とした三島一族は、東奈良遺跡、安満遺跡で銅鐸を製造しレガリアとして政治的にしていたところ、後からやって来た呉の勝=ウガヤフキアエズ=素戔嗚(孝霊天皇)一族がやってきて三島一族と戦い、真舌姫(細姫)=市杵島姫神=神大市比売(大山祇命の娘)を娶ることと銅鐸の製造を止め、銅鏡を製造することを条件に和睦したという筋書きです。


孝霊天皇の宮とされる黒田庵戸宮(奈良県磯城郡田原本町黒田)の近くには鏡作神社が6か所もあり、また弥生時代の代表的遺跡である唐古・鍵遺跡(国の史跡)もあります。鏡作神社祭神は名草から来た呉の勝の一族の石凝姥命です。


※このプログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

 今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。 

※これまでの記事はこちらです。




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3 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 21
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出雲系の鴨氏 | aohitogusa saboのブログ (ameblo.jp)


山城加茂氏・鴨県主・下鴨社家・系図、に、本来、別族であった三島溝杭(陶津耳)が、鴨建角身と同じ、とされるのはこの為でしょうか。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 20
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日前神宮[編集]

日前神宮

主祭神

  • 日前大神 (ひのくまのおおかみ)

日像鏡(ひがたのかがみ)を神体とする。

相殿神

國懸神宮

主祭神

  • 國懸大神 (くにかかすのおおかみ)

日矛鏡(ひぼこのかがみ)を神体とする。

相殿神


.UgEWa2A9vdG8Kv

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 20
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