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阿多賀田須命~宗像氏

第337話~古事記・日本書紀はウツシコオ(内色許男命)の伝記


宗像氏の出自は大国主神の六世孫、あるいは三女神の七世孫の吾田片隅命(阿多賀田須命)に始まると伝わっており、宗形徳善が阿田方須命の子孫とされていますが、系図は現在まで確認されていないとされています。


しかし旧事本紀、地神本紀、古事記などをみてみますと、天日方竒日方命(あめひがたくしひがた)から、阿多賀田須命にいたるまで系図がみつかります。


天日方竒日方命→健飯勝命→健甕尻命→豊御飯主命(豊御気主)→-大御氣主命→----阿田方須命


天日方竒日方命の別名は櫛御方命(くしひかた)、鴨主、阿田都久志尼(あたつくしね)

鴨王はウツシコオです。第85話:鴨王~瀬戸内海 第227話:天日方奇日方命


健飯勝命は片鹽浮穴宮天皇て”安寧”と言うとかいてあります。安寧天皇はウツシコオです。第194話: 安寧天皇はウツシコオの婿 第195話: 安寧天皇は河内青玉繋!?


甕尻命(たけみかじり)、または建甕槌(たけみかつち)もウツシコオです。第228話:武埴安彦命は建甕槌!!


豊御飯主命(とよみけぬし) 第245話:豊御気主命は三毛入野!=ウツシコオです。

   

また、「むなかた」の由来は、沼沢地に接する集落、「みなかた」から変異したとするとする説もあります。(福岡県宗像市の地名の由来説)宗像氏 - Wikipedia

みなかたは南方です。第312話:宗像氏はタケミナカタ!


上記により宗像氏の祖はウツシコオです。


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古事記・日本書紀はウツシコオ(内色許男命)の伝記です。>


記紀の作者たちは、500年前の記事を書いています。残された資料はおそらくイカガシコオが書いた資料しかありません。その資料はイカガシコオの父であるウツシコオの関連の記事でばかりであることは間違いないでしょう。

当時の日本で文字を読める人物はほとんどおらず、ましてや歴史書などをかける者などいるはずがありません。イカガシコオは偉大な父の実績を残しておきたかったのでしょう。

記紀の作者たちは、イカガシコオはの書いた伝記を参照にして日本書紀・古事記を書いたのです。自分たちの都合の良いようにウツシコオを様々な別の人物として再構成したのです。

参照~第297話:ウツシコオの名前についての弁明    第116話:古事記・日本書紀とQ資料


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

※これまでの記事はこちらです。


<目次>





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5 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jun 08
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伏見稲荷大社を創建したと伝えられる秦氏族について、『日本書紀』では次のように書かれている。

欽明天皇が即位(539年または531年)する前のまだ幼少のある日「秦(はた)の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見て、早速方々へ使者を遣わして探し求めたところ、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父がいた。

平安時代に編纂された『新撰姓氏録』記載の諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・から来たとする意見があるが、秦氏の始祖である弓月君は百済から到来した到来人であるという記録もあり、苗字を秦氏に変えた百済人とする意見もある。

雄略天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立った。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことだと考えられている。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。

伏見稲荷の創建

詳細は「伏見稲荷大社#歴史」を参照

稲荷山からの山城盆地の展望

深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして伊奈利社(現・伏見稲荷大社)を建てた。深草の秦氏族は系譜の上で見る限り、太秦の秦氏族、すなわち松尾大社を祀った秦都理《はたのとり》の弟が、稲荷社を創建した秦伊呂巨(具)となっており、いわば分家と考えられていたようである。

『山城国風土記』逸文には、伊奈利社の縁起として次のような話を載せる。秦氏の祖先である伊呂具秦公(いろぐの はたの きみ)は、富裕に驕って餅を的にした。するとその餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去った。そこに稲が生ったので(伊弥奈利生ひき)、それが社の名となった。伊呂具の子孫は、先祖の過去の過ちを悔いて、社の木を根ごと抜いて屋敷に植え、それを祀ったという。また、稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jun 08
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上之宮町 - Wikipedia


四天王寺七宮(してんのうじしちみや)は、聖徳太子四天王寺を創建した際に、その外護として造営された神社群である。

いずれも現在の大阪府大阪市天王寺区に位置し、以下の七つの神社を指す。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jun 04
Rated 5 out of 5 stars.

No.1

古事記・日本書紀は、ある一人の人物の伝記であることを発見してしまいました。

その人物とは、ウツシコオです。

ウツシコオは魏志倭人伝に登場する難升米です。

内色許男命(ウツシコヲノミコト)は崇神天皇の祖父で大綜麻杵(オオヘソキ)とも呼ばれています。また高御産巣日神(たかみむすひのかみ:高木神)ではないかとも考えられています。


考古学者の上垣内憲一先生はこの内色許男命はの出身地について内里であるとされています。天王山の麓で木津川、淀川、桂川が合流地点にのすぐそばが内里(京都府八幡市内里:内はウチ)です。対岸は山崎で美称を付けて大山崎です。男山八幡、天王山などがあり、交通の要所です。私は山崎のインターから京滋バイパスに入り滋賀県の会社に車で通勤しています。最近発見された淀津遺跡もすぐそばです。 


このウツシコオこそが、自ら魏に赴いたとされる卑弥呼の補佐官(弟)とされる難升米であるというのです。(由学之進著 ヒミコから崇神天皇へ)

欝色謎命の「欝」は、難しい漢字なので「難」と表し、「色謎」は「升米」に対応すると考えると「欝色謎」は「難升米」


由学之進氏は、大綜麻杵~オオヘソキ;ダイ(大:dai)ソウマキ → ナン(nan) ショウマイ → 難升米であるとされておられます。


 

日本書紀には「思兼神」と記され、「思」は思慮、「金」には「兼」の字を充て、「多くの思慮を兼ねている神様」とされ、思金大神のお働きを「深謀遠慮」と表現されており、将来を見据えたビジョンを描く知恵の神であります。思金大神は「八意(やごころ)思金大神」とも称され、「八意」とは多くの意見を聞くと解し、この神格への尊称であることから「八意様」ともしております。これらの名前は兄弟、親子のものである可能性もあります。

ウツシコオは、思金大神でもあります。天地開闢のはじまりに現れた造化三神の一柱・タカミムスビノカミ(高皇産霊神:高木神)の子で、生まれながらの知恵者です。天照大神の臣の最上位である左の臣を拝命し、遷都の采配を任され、神代の教えを説かれとされています。 

思兼は天岩戸を企画

最も有名な話では、岩戸隠れの際に、天の安原に集まった八百万の神に天照大御神を岩戸の外に出すための知恵を授けたこととされています。国譲りでは、葦原中国に派遣する神の選定を行っています。その後、天孫降臨で邇邇芸命に随伴したと記紀には書かれています。

記紀には「常世の思金の命」との表記があり、常世とは海の向こうの異世界のことでこの場合「魏」と想定できるのです。


ウツシコオが大綜麻杵、思兼神であることは、私の妄想ではなく、古代史の研究者たちには周知の事項です。ウツシコオは孝元天皇の宰相であったとされています。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jun 02
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欠史八代の妃のほとんど、シキ(師木は磯城に同じ)の出身です。

敷島 磯城のミシマ シキ・ツ・ヒコ・タマデミ

守口市日向から向日市まで日向の皇子:饒速日

登美が丘、富田、摂津富田、:長脛彦


日下 くさか

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Jun 02
Rated 5 out of 5 stars.
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