孝安天皇(第6代)と鳴神社
- 秀丸 遠嶽
- 2025年1月23日
- 読了時間: 4分
更新日:2025年1月25日
第571話 #孝安天皇 #邪馬台国 #鳴神社
孝安天皇の和風諡号は、日本書紀では日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと)、古事記では大倭帯日子国押人命(おおやまとたらしひこくにおしひとのみこと)です。
宮(皇居)は、日本書紀では室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)、古事記では葛城室之秋津島宮とされています。一般的には、大和国葛上郡牟婁郷と見られ、現在の奈良県御所市室周辺と伝承され、八幡神社境内に「室秋津島宮阯」碑が建てられています。
<このブログでの見解>
・室(むろ)は御室(みむろ:三室)で、貴人の住まい「御諸(みもろ)」のことで地名として宇治のことだともされています。宇治は内で、ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)・台与の本拠地です。
・秋津島(秋津州)の秋津(アキツ)はトンボのことです。島は三島(茨木市)だと思います。
・葛城は、高槻・枚方のことです。日本=大倭も高槻・枚方です。~倭(やまと)は高槻市、葛城は交野市
・足彦(たらし彦)はウツシコオ(内色許男命)・台与のことです。~世襲足媛(よそたらしひめ)、気長足姫(おきながたらしひめ=神功皇后)は台与です。
・押人の押は忍のことで、台与のことです。~第494話:忍坂(押坂)は忍が丘(四条畷)
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和歌山県和歌山市鳴神にある鳴神社は孝安天皇の勅命によって創建されたといわれています。鳴神社の社伝によれば、孝安天皇の御代、俄かに潮動(津波)が起こり名草郡が冠水、その後治水のために水門神である速秋津日古命を敬斎すれば逃れられると託宣があり、それによって勅使を遣わし祀られたのが鳴神社の由緒であるとされています。
鳴神社の祭神は、速秋津彦命、速秋津姫命 です。速秋津とは津波のこととする説もあります。
一方、和名類聚抄では、名草郡の郷として「忌部(いんべ)」の記載が見え、鳴神社南方の和歌山市井辺(いんべ)付近に比定されており、一帯は紀伊の忌部氏(紀伊忌部)の本貫地であったとされています。鳴神社は紀伊忌部の氏神として奉斎されたと考えられており、本来の祭神は天太玉命(あめのふとだまのみこと)と思われます。速秋津彦命、速秋津姫命は鳴神社ができた後に、津波が発生したために、後付けで速秋津彦命、速秋津姫命が祭られるようになったのでしょう。天太玉命はウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)です。~第254話:興玉命も内色許男命
紀伊忌部は彦狭知命の後裔であり、名草郡御木郷・麁香郷の2郷に居住して材木の貢納、宮殿・社殿造営を担ったと記されています。彦狭知命(サチヒコ)ウツシコオです。
◎ヒコサチ:忌部氏(彦幸)~和歌山・名草→ヒコユキ
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・天香山命の薨去~彌彦(やひこ)神社の社伝によると天香山命は孝安天皇元年に越の国開拓の神業を終えられ、神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、これが彌彦神社のはじまりとされています。天香山命=大彦は台与(豊)です。天香山命(大彦)が孝安天皇元年に亡くなったということは、台与が即して孝安天皇になったということではないでしょうか。
・後漢の安帝の永初元年(西暦107年)に朝貢した倭国王帥升とする説もありますが、この時には、卑弥呼も素戔嗚・台与は生まれていないはずです。~中平銘大刀~卑弥呼の剣
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけ!??としています。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
