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左義長:とんど焼き

更新日:12 分前

第513話 #左義長 #とんど焼き #邪馬台国 #台与(豊) #デクノボウ

      #サイノカミ


とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼き、おんべ焼き等とも言われる歳徳神を祭る慣わしがあります。

1月14日の夜または1月15日の朝に、刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾り、書き初めで書いた物を持ち寄って焼き、その火で焼いた餅(三色団子、ヤマボウシの枝に刺した団子等)を食べます。また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくと、その年の病を除くと言われています。また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると、字が上達すると言われています。道祖神の祭りとされています。道祖神はウツシコオ(内色許男命)です。~第335話: 天道根命は道祖神=ウツシコオ


門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、それらを焼くことによって炎と共に見送る意味があるとされる。お盆にも火を燃やす習俗がありますが、こちらは先祖の霊を迎えたり、そののち送り出す民間習俗が仏教と混合したものと考えられています。


富山県下新川郡入善町上野邑町地区で毎年1月15日または、15日に近い日曜日に行われる「塞(さい)の神まつり」という左義長(火祭り)行事で、子供達が塞の神と呼ばれる男女一対の白木でできた木偶(でく)人形(デクノボー)を持ち「塞の神じゃ、大神じゃ、じいじもばあばも、ほこほこじゃ、来年むけや、十三じゃ*…」と唄いながら地区内の家庭を回ります。~第268話:サイノカミ(幸の神)はデクノボー  

*十三は台与(豊)が即位した年齢です。~卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し(魏志倭人伝)


島根県大田市五十猛町大浦地区に伝承される「五十猛のグロ」は、左義長(どんど焼き)と同趣旨の小正月の行事で、重要無形民俗文化財に指定されています。左義長(さぎちょう、三毬杖)とは、小正月に行われる火祭りの行事つまり上記の「とんど焼」のことです。

日本全国で広く見られる習俗です。五十猛(イタケル)は饒速日=台与(豊)です。


福島県会津、新潟県新潟市、東京都多摩地域、神奈川県川崎市ほか。会津地方では「歳の神」と呼ばれています。新潟県で行われる塞の神では炎であぶったスルメを食べるとその年は風邪をひかないという言い伝えがあります。塞の神はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。第268話:サイノカミ(幸の神)はデクノボー  


福島県会津地方では1月15日に行われる。大沼郡三島町で行われる伝統行事は、「三島のサイノカミ」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。

新潟県十日町市松之山では焼く対象を「賽の神」と呼びます。神奈川県大磯町の左義長は国指定の重要無形民俗文化財で、セエノカミサン(道祖神)の火祭りとして、毎年1月14日近辺に大磯北浜海岸で行われています。


兵庫県龍野市の左義長では家中の掛軸をかけ、机をおいて、その上に酒食を供えて年神(大歳神)をまつることは今日でも広くおこなわれています。


歳徳神は、大歳=饒速日=台与(豊)です。


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<蛇足の追記>

・当時の貴族の正月遊びに「毬杖(ぎっちょう)」という杖で毬をホッケーのように打ち合う「打毬」があります。小正月に進献された葉竹を束ねたものをたて、毬杖(ぎっちょう)3本を結ぶことから「三毬杖(さぎちょう)」と呼ばれていました。これが民間に伝わり、現在の形になったとされる。

・左利きのことを「ひだり・ぎっちょ」といいます。 御左口神:ミシャグジの左とは、左近桜(さこんのさくら)ではないかと思います。左近の京都御所の内裏にある桜のことで、右近の橘に相対しています。つまり左近の桜は台与で右近の橘は、非時香菓(ときじくのかくのみ)すなわちタチバナ(橘)を求めに常世の国(魏)に派遣されました田道間守(タジマモリ)です田道間守は丹波道主命でウツシコオです。

左義長=御左口神(ミシャグジ)は台与(豊)で、右はウツシコオです。~第465話:ミシャグジ様は物部守屋=ウツシコオ

台与(豊)は左利き(左ぎっちょ)だったのかもしれません。



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>







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4 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3時間前
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当社では御祭神の五十猛命は 「イタケルノミコト」 とお呼びしています。伊太祁曽神社を紹介している書物によっては 「イソタケルノミコト」 と表記されているものがありますがこれは誤りです。


”五十” は ”イソ” とも ”イ” ともどちらにも読みます。伊勢の五十鈴川は 「イスズガワ」 ですので後者の例です。


但し、五十猛を 「イソタケ」 と読む場合もあります。例えば島根県には五十猛町(イソタケチョウ)という町があります。


また五十猛町には五十猛神社がありますが、こちらは 「いそたけ神社」 と読み、御祭神も 五十猛命(いそたけるのみこと) とお呼びしているようです。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3時間前
Rated 5 out of 5 stars.

一般的に、紀氏は天神系の天道根命あるいは、皇族系の武内宿禰の末裔の氏族だと言われていますが、原型は出雲族(五十猛命等兄妹の系統)との説も濃厚です。

以下、太田亮氏の説です。


地神本紀に『素戔嗚命六世孫豊御気主命(亦名健甕依命)、此の命・紀伊名草姫を妻と為す』と載せ、また天孫本紀に『紀伊国造智名曽の妹中名草姫』と云ふも見ゆ。


此等の名草姫、国造智名曽、中名草姫は次項紀国造系中に見えず、且つ名草地方の豪族なるを思へば名草戸畔の後裔と見る方、穏当なるべく、


又伊太祁曽以下の三神は出雲系の神にして、神武天皇御東征以前より名草の地に鎮座せられしものと考へられ、又名草戸畔は御東征当時、この地にて勢力を振ひし大豪族なれば、恐らく名草戸畔は出雲系の豪族にして、此等三神を奉斎し以つて此の地方に威を振ひしものと思考せらる。


よりて地神本紀に五十猛以下三神を挙げ紀伊国造奉斎の神となす、紀伊国造は、古くは此の出雲系の国造を指せしものにあらずやと想像さるべし。(太田亮 著 『姓氏家系大辞典 第2巻』 5コマ)


「大屋姫命」と天香語山命との婚姻で、「熊野高倉下」とありますので、こちらが、紀氏の国造の系譜でしょう。

 

となれば、『日本書紀』では、大屋姫命の兄となっているけれども、天香語山命が五十猛命であるという仮説が成り立ちます。


※ 名草戸畔(なぐさとべ) 紀伊の女首長であり、神武天皇の東征軍と戦い、戦死した。


※ 伊太祁󠄀曽神社(いたきそじんじゃ)は、紀伊国の一宮で、 五十猛命 ・ 大屋都比賣命 ・ 都麻津比賣命を祀る。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3時間前
Rated 5 out of 5 stars.

<関連項目>

伊都国  一大率は五十猛(饒速日)

孝元天皇は五十猛!~椿井大塚山古墳

五十猛の九州征圧

神功皇后と五十猛

臼と杵~やまとたける2


古代豪族 海部氏と同様の系図をもつ尾張氏も、このように「天香語山命─天村雲命」を祖としています。

 

この系図で見ると、天香語山命は、大己貴命(オオナムチノミコト)と宗像族との結婚で生まれた高光日女命(たかてるひめのみこと)が産んだ神で、出雲族と海部氏・尾張氏の祖・火明命との混血です。

 

息子の天村雲命の亦の名として「天五十楯天香語山命」とあります。ここでも、「五十楯」(イタテ)の表記があります。しかし、天村雲命では、紀氏の祖神にはなりません。


「大屋姫命」と天香語山命との婚姻で、「熊野高倉下」とありますので、こちらが、紀氏の国造の系譜でしょう。

 

となれば、『日本書紀』では、大屋姫命の兄となっているけれども、天香語山命が五十猛命であるという仮説が成り立ちます。

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