第494話 #忍坂 #押坂 #尾のある人 #忍坂大中姫
#押坂彦人大兄皇子 #天足彦国押人命
JR学研都市戦の寝屋川公園駅から、忍ケ丘駅に沿って府道20号線があり、結構な坂になっています。その坂の途中に蕎麦屋があり、結構おいしいのでよく行きます。その坂がどうやら忍坂(おしさか)のようなのです。
忍坂(押坂)とは、神武天皇が南紀・熊野から大和の地に進攻する際、宇陀から峠を越えて土蜘蛛・八十建(やそたける)を征伐した「忍坂大室屋」の伝承地です。奈良県桜井市朝倉駅付近とされています。
古事記では、大和国の忍坂においても尾の生えた土雲が大室(記伝では土中の室で山腹に横穴を掘ったものと解釈)にいた記述があります。この「尾のある人」とは、「葦原に住む人」という意味だそうです。 大山元著「古代日本史と縄文語の謎に迫る」p72
葦は河川、湖沼の水際に背の高い群落を作ってに茂っている植物です。桜井市は山の中です。付近には大和川が流れていますが葦原はありません。葦原といえば淀川です。
私が、忍坂とする地の住所は、大阪府四條畷市岡山東あたりで、現在は淀川からは数キロ離れていますが、邪馬台国当時は、この辺りまで河内湖が広がっていました。
私が、五十瓊敷皇子、大刀一千口を作らせたと思う、蔀屋北遺跡は河内湖の湖岸であったため船らの鉄の原料の搬入が容易であったとされています。
和田 萃:京都教育大名誉教授(古代史)は「忍阪の地は大和王権にとって極めて重要な地域で、允恭天皇の皇后である忍坂大中姫の宮が存在し、息長氏(おきなが)の本拠地である近江の豊富な鉄資源をもとにしてつくられた武器類が忍阪の武器庫に収められ、(後に石上神宮に移された)ヤマト王権を支える強力な力になった」と述べておられます。
忍阪が、息長氏の拠点だったと思われます。息長氏の血を引いているという忍坂大中姫* の妹は衣通姫です。舒明天皇の父、忍坂彦人大兄皇子は「忍阪王家」の祖であり、母(広姫)も息長氏の出身、舒明天皇の和風諡号は「息長足日広額」など、忍阪と息長氏との深い繋がりがうかがえます。この一族が皇統の主流です。
*忍坂大中姫の妹とされる衣通姫は台与(豊)です。参照:第398話:衣通姫(そとおりひめ)、忍坂大中姫も台与です。
押坂彦人大兄皇子(おしさか・の・ひこ・ひとのおおえのみこ)は、敏達天皇の第一皇子で今の皇室は、この押坂彦人大兄皇子の男系子孫にあたるとされています。
この押坂彦人大兄皇子と似た名の天足彦国押人命(あめ・たらし・ひこ・くに・おしひとのみこと)は孝昭天皇の第1皇子で饒速日(ニギハヤヒ)の末裔とされています。
孝昭天皇は台与です。押坂彦人大兄皇子=天足彦国押人命=台与ということです。
奈良県桜井市の忍阪は桜井市の中心部から南東へ車で約10分、宇陀へ通じる国道166号線沿いの山麓に広がる集落です。古事記や日本書紀に神武天皇が大和を平定する際、この忍阪で待ち受けていた八十建を征伐した「忍坂大室屋」の伝承地として知られています。
疫病の大流行により寝屋川・四条畷から桜井に移転したと思われます。
和歌山県橋本市の隅田八幡宮所蔵の国宝で日本最古の金石文の一つである人物画像鏡に刻まれた文字の中に『癸未年・・・在意柴沙加宮時(おしさかのみやにいますとき)・・』という文字が見られることは広く知られており、継体天皇が即位前に、忍阪にいたことになるのです。継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社
八十建*(やそたける;ウツシコオ;ナガスネヒコ)がこの忍坂で討たれたとするなら少し登った高台の住宅街(川勝町)の一区画に「秦河勝の墓」があります。
討ったというのはウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)が台与に禅譲したということでしょう。
*八十建=川上梟帥(かわかみたける)は 川上梟帥はスサノオ
*秦河勝:秦河勝:摩多羅神はウツシコオ!
*「忍坂大室屋」というのは、第469話石の宝殿2~大阪府寝屋川市で述べた石の宝殿だと思います。
*土蜘蛛とは縄文人のことです。土蜘蛛は、忍坂で惨殺されたと書かれていますが、恭順した部族には稲作を教えたと思われます。近畿では、縄文人と弥生人が仲良く共存していたことを示す遺跡が何か所で確認されています。
・弥生の始まり 縄文と弥生の融合を示す田能・口酒井遺跡(猪名川東岸と伊丹空港にはさまれた猪名川の河口域 ) 13iron02.pdf
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
東寝屋川から忍が丘に向かって坂が下っています。坂の上の方の地名は打上です。
〒572-0858 大阪府寝屋川市打上元町
打上には、打上神社(高良神社)があります。高良(=香春)とは銅や鉄などの鉱物のことです。~高良玉垂命(高良大社)と武内宿祢
雄略天皇元年、息長沙禰王は真若郎女と大々杼命を淡海の息長彦主人王の許に送り届けた。しかし、真若郎女が早世したため、大々杼命は継母の「福井の振女」の許で成長し「越前三国の君」と号した。同7年、忍阪大中女命が崩御し「讃野皇山御陵」に葬られた。彼女が御幸した際の御殿があった地を古くは「忍阪」といったが、今は「大阪」という。また、この山の東に「田井の媛」という字があるが、この地に田井中女命の住殿があり、河内国志紀を領有し「田井郷」と称したのが、現在の田井中村である。また、元々住んでいたところはには御名代として「田井部」を置いたが、現在は畑となって「田井島」という。この田井部が移住して「河部」を称し、現在東喜連村の南に住む「河村」を称する人はこの田井部の子孫である。
また、天智天皇7年(668年)に、この地に「牧」をおいて多くの馬を放し飼いにしたことから、この飼育地を放出と呼んだとする説もあります。
高良玉垂命(こうらたまたれのみこと) - 神紋は「横木瓜」、神使は「烏」
Microsoft Word - 高良玉垂命とは誰か(紹介文付き修正稿).docx
物部胆咋は、景行三六年 に娘の五十琴姫命(いごとひめのみこと)が景行天皇の妃
かご坂王と忍熊王 – 古代史俯瞰 by tokyoblog
<台与シリーズ>
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倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ??
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ヤマトタケルは台与 瓊瓊杵尊:ニニギは台与
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とよ(乎止与命・台与・臺與) 衣通姫(そとおりひめ)