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木嶋坐天照御魂神社と日神の託宣

更新日:1 日前

第498話 #木嶋坐天照御魂神社 #阿閉事代 #邪馬台国 #台与(豊)

      #三柱鳥居 #天日神命 #他田坐天照御魂神社 #新屋坐天照御魂神社


木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)は、京都府京都市右京区太秦森ケ東町にあります。この神社は京都でも最も古い神社と思われます。その創建には、前回書いた対馬と関係*下記しているようなのです。


日本書紀の顕宗天皇紀では、阿閉事代に「日神」が憑依し、「磐余(いわれ:奈良県桜井市)の田を高皇産霊*に献上しろ」と宣託をし、後に対馬下県直に祀らせたといい、この「日神」は天日神命のことであるとされています。そして、対馬県主が天日神命を対馬において祀ったのが阿麻氐留神社(あまてる留神社=天照神社)*下記、畿内において祀ったのが木嶋坐天照御魂神社、天日神命の祖・高皇産霊を祀ったのが目原坐高御魂神社であると考えられています。対馬県主=天日神命は前回述べたようにウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。*高皇産霊はタカミムスビ=高木神=ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。


阿閉事代(あえ の ことしろ)は、顕宗天皇3年(487年)に月神と日神の託宣を朝廷に伝えたといいます。日本書紀、新撰姓氏録によると、阿閉は阿倍で阿閉事代は事代主のことでしょう。阿部氏の祖は大彦です。~阿部(安部)氏~岸辺(吹田市)

 事代主もウツシコオです。~275話:事代主もウツシコオ


日神の託宣とは下記のです。

~日神が人に依り憑き、事代に、「磐余の田をわが祖高皇産霊に献上せよ」と、言った。

事代はすぐにこれを報告した。神の言うとおりに、磐余の田を十四町献上し、対馬下縣直(つしまのしもつあがたのあたい)に日神を祀らせた。


第496話:敏達天皇は台与(豊)では新屋坐天照御魂神社を疫病の流行より、桜井市の他田坐天照御魂神社へ移転させたと書きました。そして敏達天皇の磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)は、奈良県桜井市です。日神の託宣とは、ヤマト(邪馬台国:高槻市、枚方市、交野市)を奈良県桜井市に移したということでしょう。


木嶋坐天照御魂神社の名称も新屋、他田を木嶋に代えただけです。つまり木嶋坐天照御魂神社も新屋坐天照御魂神社や他田坐天照御魂神社と同じく稲作のために必要な太陽観測「日読み」の場所だったと思われるのです。


そして目原坐高御魂神社(めはらにいますたかみむすび神社)は奈良県橿原市太田市町にありますが、目原とは、第443話:孝昭天皇は台与:日原は目原で書いたように目原は京都府舞鶴市女布:丹後国加佐郡女布村日原です。目原坐高御魂神社も丹後から奈良県に移転してきたのでしょう。


木嶋坐天照御魂神社は、京都市右京区太秦森ケ東町にあることからも分かるように秦氏とも関係が深い神社です。近くには広隆寺・松尾大社・蛇塚古墳などの秦氏ゆかり史跡があります。本殿の東隣に鎮座する蚕養神社は、この秦氏が招来した養蚕・機織・染色技術に因むと推測されています。境内の北西隅には「元糺の池(もとただすのいけ)」と称する神泉があり、かつては湧水が豊富であったといいます。伝承では木嶋社の社叢を「元糺の森」、神泉を「元糺の池」と称し、下鴨神社の森が「糺の森」と呼ばれるようになる以前、元々は木嶋社の社叢が「糺の森」と呼ばれていたとされています。


ということは下鴨神社よりも木嶋坐天照御魂神社の方が古いと思われます。

この元糺の池の中には三柱鳥居(みはしらとりい)が建てられており、柱3本を三角形に組み、3方から中心の神座を拝することを可能とする珍しい形式の鳥居です。中央の神座は、円錐形に小石を積み、中心に御幣を立てて依代としたものです。この鳥居の起源等は詳らかでなく、秦氏の聖地である双ヶ丘・松尾山(松尾大社神体山)・稲荷山(伏見稲荷大社神体山)の遥拝方位を表したとする説がある一方、秦氏=ユダヤ人と結びつける説もあります。

私は、新屋坐天照御魂神社や他田坐天照御魂神社と同じく稲作のために必要な太陽観測「日読み」の場所だったと思います。


1)継体天皇が枚方(樟葉)に宮を置き、その後、最後に移った宮は、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)は、奈良県桜井市です。敏達天王は、初め百済大井宮(くだらのおおいのみや)から訳語田幸玉宮(桜井市)に移っています。~敏達天皇は台与(豊)

2)磐余(イワレ)は神武天皇(イワレヒコ)の名です。百済大井宮は枚方市にある百済神社でしょう。大阪府枚方市中宮西之町には、百濟王神社(くだらおうじんじゃ)があります。この辺りは都ヶ丘がと呼ばれています。


1)2)から大和朝廷の宮は、百済大井宮(=百済神社:大阪府枚方市中宮)から、磐余玉穂宮(奈良県桜井市)へ移転したことがうかがえます。日神の託宣~日神が人に依り憑き、事代に、「磐余の田をわが祖高皇産霊に献上せよ、事代はすぐにこれを報告した。神の言うとおりに、磐余の田を十四町献上し、、」とは、ヤマト(邪馬台国)が、枚方市から桜井市へ移転したことを暗示させます。


継体天皇=敏達天皇=神武天皇(磐余彦)台与(豊)です。~敏達天皇は台与(豊)


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*対馬との関係~北條勝貴(上智大学文学部史学科教授)は、壱岐・対馬の日神・月神が密接な関係にあることは明らかで、木嶋社が元来対馬氏によって奉祀されていたのか、それとも尾張氏系の氏族によって奉祀されていたのかは不明であるが、顕宗紀に見える、上記のような対応性を考慮すれば、日神を奉祀する木嶋社が、日月の両信仰が、ある時期に玄界灘から畿内地方へともに移植され、両社もそれらと軌を一にして創建されたものではないかとされておられます。


阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)は、長崎県対馬市美津島町小船越にあります。

祭神は、天日神命(あめのみたまのみこと)、津島県直の祖神とされ、日本書紀:顕宗天皇紀では、壱岐の月神と共に高御魂命の末裔とされています。して現れる(対馬では豆酘:(つつむら)の高御魂神社の5世孫とされる)。阿麻留というのは天照で、本来この地方の神名で、「天照神」だったと考えられています。




※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




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・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

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<目次>




元糺の池と三柱鳥居


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