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河俣毘売(かわまたびめ)~放出(はなてん)

第495話 #河俣毘売(かわまたびめ) #放出(はなてん)

      #台与(豊) #息長田別王 #杭俣長日子王


第2代天皇である綏靖天皇の皇后は、日本書紀では五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)、古事記では師木県主の祖の河俣毘売(かわまたびめ)としています。


第488話:杭全神社~息長氏と河内 では、次のように書きました。

川俣(かわまた)は大阪府東大阪市の地名です。〒577-0063 この河俣毘売が五十鈴姫(ホトタタライスケ依姫)で台与です。


河内の息長の一族も、古くから農耕に必要な土地の灌漑や河川の整備を行ってきたと思われ、ヤマトタケル(ヤマトタケルは台与 )の子とされる田別王=息長田別王(オキナガタワケ)の名は、田=農耕地を先代から「別=ワケ」与えられた、つまり引き継いだ王(継体天皇)という意味です。参照:継体天皇はトヨ(台与)??!    継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社

記紀に、継体天皇の名「大々杼(おおど)」をはばかり、大々杼郷を杭俣長日子王に因んで杭俣郷と称した記事がみえます。ここが現在、抗全(クマタ)と呼ばれるところです。

杭俣長日子王)(くいまたながひこ)は河俣毘売(かわまたびめ)と同一人物です。


息長田別王の子が杭俣(くいまた)長日子です。杭(くい)=土木工事によって地域の開発を進めた実績を端的に表しています。東大阪市近辺はかつての河内湖で湿地帯だったでした。


この東大阪市川俣の最寄り駅は放出(はなてん)です。この放出も第480話:百々石城~南方(喜連瓜破)と同様に難読地名としてよく知られています。



古文書などには「はなちと」「はなちで」「はなちでん」「はなつて」などと記されており、古来、このあたりは寝屋川と旧大和川にはさまれた低湿地で、諸河川が流入して大湖沼となり、湖沼の水はここから西流して淀川に合流していました。

大和川がよく氾濫したので、当地に樋を掘り、水を放出した、つまり大湖沼の水の放出口であったことからこの地名になったとの説があります。


さらに、昔は「はなてん」と読まずに、「はなちでん」から「はなちで」と称していました。当地は古代から中世にかけて、河内湖からの湖水が大和川や寝屋川の流れと合流して淀川(現在の大川)に注ぐあたりに位置し、仁徳天皇*の頃にも旧大和川の氾濫が多かったことから、この地に樋を作りその水を調節して水を「放」ち「出」したところから、その名が起こったともいわれています。*仁徳天皇=崇神天皇=台与です。~第203話:堀江~仁徳天皇は崇神天皇!


日本書紀の記述―崇神天皇62年7月2日の条

「農は天下の大本なり。…今、河内の狭山の植田水少なし。是を以て其の国の百姓、農のことを怠る。其れ多に池溝を開きて民業を寛かにせよ」

古事記の記述―垂仁天皇の段

印色入日子命(五十瓊敷皇子)、血沼池又狭山池を作るとあります。


崇神天皇、印色入日子命(五十瓊敷皇子)は台与(豊)です。

この放出、川俣から少し東にいくと、そこが日下(くさか)=日の下=日本です。饒速日(ニギハヤヒ)を祭る石切神社があります。〒579-8012 大阪府東大阪市上石切町


下の家系図に衣通姫(そとおりひめ)忍坂大中姫、河派仲彦王(かわまたなかつひこ)

の名が見えます。かわまたは杙俣長日子王(古事記)くいまたながひこのみこ)

とも書きます。これらはすべて台与(豊)です。ヤマトタケルは台与 

彦主人王はウツシコオです。~継体天皇の父はウツシコオ



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>






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2 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
6日前
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丹の湖~亀岡盆地は湖だった!!


桑田神社の場所から保津峡の開削を始めたと伝える[2]。この開拓着工の鍬入れを受けたので、社名を「請田(うけた)」というようになったという[2]。亀岡盆地が湖だったということに関する伝承は周辺各地に残ることが知られる(詳しくは「亀岡盆地#湖伝承」を参照)。

敏達天皇 - Wikipedia


夫人:老女子(おみなご、春日臣仲君の女)


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