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邪馬台国には馬がいた!~生駒

更新日:11月6日

第492話  #輪鐙 #箸墓 #生駒 #邪馬台国 #卑弥呼


魏志倭人伝に邪馬台国には牛馬はいないと書いてあります。しかし、箸墓古墳の堀からは馬具が出土しています。下に写真があります。


私が邪馬台国とする交野市域の半分は生駒山地によつて占められています。この生駒山は、日本書紀では「謄駒山」、万葉集では「伊故麻乃山・射駒山、伊駒山」などと表記されています。生駒の「駒」とは馬のことで、馬と密接に関連していることがわかります。文永六年(1269)に作られた「万葉集註釈」には、「昔百済国より馬をこの国へ献りたり、それを秦氏の先祖よくのれりけり、さて帝これをいみしきものにせさせ給ひて、うまと云こと定り始て、いこま山に放てかわしめ玉ひけり」とあり、生駒山周辺が馬飼との関係が深かったことが分かります。特に、北河内では西隣の四條畷市に濃密に分布するほか、寝屋川市や枚方市でも多数の古代の馬関係資料が見つかっています。参照:四條畷と馬匹文化


前回:森製鉄遺跡~交野市河内磐船で書きました古墳時代の大規模な鍛冶遺跡である森遺跡からは、鉄地金銅製品の破片がや銅含みの鉄塊が含まれていたこと理化学的調査によって分かっており、これらは周辺の馬飼集落から持ち込まれた鉄板に銅を貼り合わせた馬具の一部と考えられています。


讃良郡(寝屋川・四條畷市)と接する星田地区に星田庄があり、福御牧や樟葉牧などの地名が見え、この庄園も元は牧であったことが記されています。(興福寺別当次第裏文書)

私は邪馬台国はミマキ国(御牧国)としていますが、牧は場のことだったのです。

森遺跡や星田地区の外殿垣内遺跡では中世の馬の骨は発見されていますが、これまでのところ古墳時代に遡る発見例はありません。しかし、この星田あたりでは全時代を通じて遺構・遺物ともに希薄であり、また讃良郡にも接していることから、古代においては馬の放牧地として利用されていたとも思われます。


第127話:邪馬台国異聞2~馬と呉服では、古事記では、百済から馬が送られてきた記事と並んで、鍛冶工と服造りの者が送られたとも書かれています。もしこれらの出来事がBC230年代のことだとしたら、卑弥呼は健在です。


奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、輪鐙は四世紀初めに周濠に投棄され たと推定されています。


輪鐙は落葉などが20~30年にわたってたい積して 固く締まった層から、四世紀初めの大量の土器とともに 出土しており、四世紀初めに投棄されたとみられています。


日本書紀;垂仁天皇紀に、皇后の日葉酢媛(ひぱすひめみこと)の命 がなくなったときに、その陵墓に、「人・および種々の 物の形」=埴輪をつくって、樹(た)てたとの記事 があります。


記紀で出てくる「活目:人名、地名」は「生駒」とする説*もあります。*佐藤陽太著「かぐや姫と浦島太郎の血脈」p127

とすると垂仁天皇は、活目天皇(いくめのすめらみこと) 、活目尊(いくめのみこと) ですので、生駒の大王ということです。


生駒の大王=長髄彦(ナガスネヒコ)=垂仁天皇=アメノヒボコ=ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王です。参照:第325話:天之日矛はウツシコオ、第329話:アメノヒボコはウツシコオ 





箸墓古墳の堀から出土した馬具(輪鐙:わあぶみ)出典:箸墓

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<蛇足の追記>

高天原でアマテラス(卑弥呼)が神聖な機織り屋で機織り女に神衣を織らせているときに、スサノオは機織り屋の屋根をうがち、皮をはいだを屋根から落としました。ということは高天原(邪馬台国)には馬がいたということです。




※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




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