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石の宝殿3~六甲山

第470話  #六甲山神社 #菊理媛命 #台与 #神功皇后 #廣田神社


六甲山の石宝殿は六甲山頂から東に1kmの峰の上にあります。

兵庫県西宮市山口町船坂にある六甲山神社の境内です。


六甲は「ろっこう」ではなく、「むこ」と読みます。かつてこの辺りが、邪馬台国があった高槻、枚方、守口から向こうの方にあったからです。第6話:六甲山(むこうやま)~地名からわかることで六甲山(ムコ山)と向町(ムコウ:向日市)は枚方から見て向こうの方にあるからで、「むこう」は枚方の人間が付けた地名で枚方市が邪馬台国であった証だとしていました。しかしタミル語で「ムコ」は入り口の意味だというのです。ということは、邪馬台国の西の入り口は武庫川(ムコ川:兵庫県)で東の入り口が向日市(京都府)ということになります。これはまさに摂津の国です。参照:第6話Ⅱ:六甲山(むこうやま)~地名からわかること タミル語で読み解く邪馬台国(2)


六甲山神社は白山の宮(しらやまのみや)とも称されています。

祭神は菊理媛命です。第115話:菊理媛神~大目は大日(守口市)で書いたように、菊理媛神(ククリヒメ、キクリヒメ)は、加賀国の白山を始め全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と思われます。


白山は泰澄により開山されました。泰澄(たいちょう)は奈良時代の修験道の僧です。この僧である泰澄は、越前の足羽郡の神職の家に生まれています。泰澄は夢で、虚空から現われた女神に、「白山に来たれ」と呼びかけられます。お告げを信じた泰澄は、それまで誰も成し遂げられなかった白山登拝を決意し、弟子とともに白山を目指して旅立ちました。そして幾多の困難の末、ついに山頂に到達したとされています。虚空から現われた女神は菊理媛神です。菊理媛神は天照大神(アマテラス)とされています。参照:第115話:菊理媛神


六甲山神社境内の石製の神殿の奥に六甲山大権現が祀られています。これが神社名由来の古くからの本来の主祭神と考えられ、六甲山石の宝殿が「広西両宮絵図」に西宮鎮守とあること、六甲山全域がかつての廣田神社の社領であったこと、六甲山がかつては向津峰(ムカツミネ)と呼ばれていたことから、廣田神社祭神、撞賢木厳魂天疏向津媛命(ツキサカキ・イズノミタマ・アマサガル・ムカツヒメノミコト)の奥宮としてとらえることます。

*六甲山大権現=撞賢木厳魂天疏向津媛命ということです。


撞賢木厳之御魂天疎向津媛命は天照大神の荒御魂である瀬織津姫とされています。「西宮」の地名由来*の大社である廣田神社(兵庫県西宮市)は、天照大神荒御魂を主祭神としていますが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていたそうです。

*撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=瀬織津姫(*下記参照)ということです。

廣田神社を中心とする神社群は、京から西国方向を目指す街道上にある神社ということで「西宮」(にしのみや)とも呼ばれていました。


日本書紀に六甲山神社の創建のことが書かれています。

神功皇后の三韓征伐から帰る際、神功皇后は、紀淡海峡に迂回して難波の港を目指した。しかし、難波の港が目の前という所で、船が海中でぐるぐる回って進めなくなってしまった。そこで兵庫の港に向かい、神意をうかがうと、天照大神の託宣があった。「荒魂を皇居の近くに置くのは良くない。広田国に置くのが良い」と天照大神の荒魂を祀られた。すると、船は軽やかに動き出し、忍熊王を退治することができた。これが廣田神社の創建である。このとき、生田神社・長田神社・住吉大社に祀られることになる神からも託宣があり、それぞれの神社の鎮座が行われた


この話は、第468話:石の宝殿と高砂 とよく似ています。


播磨国風土記では、夫の仲哀天皇と一緒に熊襲を征伐するために筑紫へ向かって難波津を船出したところ、すぐに海が荒れ、高砂に船を入れたので入り波から「いんなみ;印南」になったとされています。三韓を征伐した後、神功皇后は帰って来る時も印南の浦に立ち寄って、ここに夫の仲哀天皇の墓を建てようと思い立ち、石作連大来を連れてきたという逸話もあります。明石と高砂(印南)はすぐ近くです。


468話で示唆したように、神功皇后が台与だとすれば、六甲山(むこつやま)の石の宝殿を作ったのは、神功皇后が連れて来た石作連大来=秦氏でしょう。


<瀬織津姫>

熊野権現は瀬織津姫であるいう説があります。大和政権がエミシ征伐の際、熊野権現を守り神とし北へ向かったとされ、制圧した後、気仙沼市唐桑町に瀬織津姫神社、熊野神社などを建てたという伝承があります。熊野本宮大社のことを書いた玉籤集では熊野本宮大社(本宮)で菊理媛神が祀られていると記述されています。*大和政権がエミシ征伐はヤマトタケル=台与を思わせます。ヤマトタケルは台与


瀬織津姫は宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されています。また、祇園祭鈴鹿山の御神体は鈴鹿権現として、能面をつけ、金の烏帽子をかぶり長刀と中啓を持つ瀬織津姫を祀っています。これは伊勢の鈴鹿山で人々を苦しめる悪鬼を退治した鈴鹿権現の説話に基づいています。

*宇治の橋姫は菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)=台与を思わせます。

*悪鬼を退治する話は、台与を思い起こします。参照:酒吞童子と茨木童子


今でも、私達、近畿に住む者にとって、六甲山、明石、高砂は日帰りで楽々行ける近畿の行楽地です。



関連項目:石の宝殿と高砂


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>






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