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継体天皇は台与3~田井(寝屋川市)

更新日:10月30日

第481話 #継体天皇 #台与 #息長氏 #秦氏 #忍阪


第479話:継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社で書いた北村某の家記には次のような記述があります。


雄略天皇元年、息長沙禰王は真若郎女と大々杼命(継体天皇)を淡海(滋賀県)の息長彦主人王(継体天皇の父)の許に送り届けた。しかし、真若郎女が早世したため、大々杼命は継母の「福井の振女」の許で成長し「越前三国の君」と号した。同7年、忍阪大中女命が崩御し、「讃野皇山御陵」に葬られた。彼女が御幸した際の御殿があった地を古くは「忍阪」といったが、今は「大阪」という。また、この山の東に「田井の媛」という字があるが、この地に田井中女命の住殿があり、河内国志紀を領有し「田井郷」と称したのが、現在の田井中村である。また、元々住んでいたところはには御名代として「田井部」を置いたが、現在は畑となって「田井島」という。この田井部が移住して「河部」を称し、現在東喜連村の南に住む「河村」を称する人はこの田井部の子孫である。


・継体天皇の父が彦主人王で、ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王あることは既に確認しています。第385話:継体天皇の父はウツシコオ


※上記の文中に忍阪、田井という地名が出てきます。


允恭皇后、忍坂大中姫命 はその名に、押坂彥人大兄皇子と同じ「忍坂: おしさか 」を冠しています。また、息長足日廣額天皇の和風諡号を持つ舒明天皇の陵墓も 押坂内陵 となっていることから「押坂」あるいは「忍坂」の地は、息長氏の拠点のひとつと思われます。


大阪府八尾市にも志紀郡田井郷の地にあたる地があります。五条田井中、現在の田井中村です。また、元々住んでいたところはには御名代として「田井部」を置いたが、現在は畑となって「田井島」という。この田井部が移住して「河部」を称し、現在東喜連村の南に住む「河村」を称する人はこの田井部の子孫です。喜連については、前号:第480話:百々石城~南方(喜連瓜破) 第479話:継体天皇は台与2~大々杼郷で書いたように、継体天皇、息長氏の拠点地です。


◎押坂は忍ケ丘 田井は寝屋川市


第422話:継体天皇はトヨ(台与)??!では、次のように書きました。


衣通姫(そとおりひめ)は布遅波良己等布斯郎女の他に田宮中比彌(たみやのなかつひみ)という名前もあります。田宮(田居)中比弥の田宮(田居)は地名です。これらは彼女等の成長した土地ではなく、后妃となってから宮殿を営んだ地です。河内国交野郡田宮郷が該当すると考えられています。

また、衣通郎(外通姫;台与:継体天皇)の別名に田井之中比売があります。

田宮(田居)は允恭妃(忍坂大中姫)が住んだ地と考えられています。ということは、忍坂大中姫=衣通姫です。


田宮は河内国交野郡田宮郷が該当すると考えられています。河内国交野郡田宮郷とは京阪電車枚方市駅前です。〒 573-0024枚方市田宮。そして田井は寝屋川市です。〒572-0021大阪府寝屋川市田井町、そしてこの寝屋川市田井町の近くにJR忍ケ丘の駅があり、忍の字から忍坂・押坂を連想させます。この辺りは、第469話:石の宝殿2~大阪府寝屋川市:で書いたように讃良郡で、江戸時代には交野郡(=邪馬台国)でした。打上神社(高良神社)があるところです。秦氏の一大拠点地です。第469話:石の宝殿2~大阪府寝屋川市で台与が茨田堤を築いたとする太秦(寝屋川市)〒 572-0844です。


「押坂」あるいは「忍坂」の地は、息長氏の拠点で、田井・太秦(寝屋川市)は秦氏の拠点ということは、つまり秦氏=息長氏なのです。


外通姫は、日本書紀では忍坂大中姫の妹、古事記では、忍坂大中姫の子になっています。

しかし、外通姫=田井之中比売=忍坂大中姫=允恭天皇=台与=継体天皇ということです。


◎魏志倭人伝では、卑弥呼の後継者は台与と書かれています。しかし古事記、日本書紀には台与は全く登場していません。と思われていました。しかしちゃんと台与のことが記載されていたのです。台与は女性ですが、記紀では台与は男性として記載されていたのです。


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古事記での「息長」の文字の初出は、息長水依比賣(おきなが・みずより・ひめ)です。父は天之御影神の六世孫・国忍富命、夫は日子坐王(第9代開化天皇の子)。


古事記は、意富富杼王(継体天皇)の後裔から息長氏が始まると記しています。


聖徳太子の伝記である上宮記には次のような記述があります。


*上宮記曰。一云。凡牟都和希(ホムツワケ=応神天皇)王娶経俣那加都比古女子。名弟比売麻和加(稚野毛二派皇子母)。生児若野毛二俣王。娶母々恩(※恖=思の誤写か)它(※蛇。巳。己(キ)の誤写?)麻和加中比売(太郎子以下四人母)。生児大郎子。一名意富富等王。妹践坂(ヲサカ=忍坂)大中比弥王。弟田宮中比弥。弟布遅波良已等布斯郎女四人也。


上記の意富富等王は継体天皇。践坂(ヲサカ=忍坂)大中比弥王=忍坂大中姫、田宮(田井)中比弥、布遅波良已等布斯郎女(ふじわら・ことふし・のいらつめ=衣通郎は台与=継体天皇です。


息長水依比賣=台与とすれば、息長(おきなが)が付く名前の人物は、すべて台与(継体天皇)です。前号で登場した息長田別王は台与です。神功皇后:日本書紀での名は気長足姫尊*(おきながたらしひめのみこと)も台与です。と書いたのはこのことです。*息長=気長



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>






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