top of page
tootake

六角堂と平安京

更新日:12月2日

第519話  #聖徳太子 #小野妹子 #池坊


六角堂(紫雲山 頂法寺)は、京都市中京区六角通東洞院西入堂之前町にあります。

創建年は、用明天皇2年(587年)と伝わりますから、平安京よりも200年も前から京都にあったことになります。開基は聖徳太子です。

本堂が平面六角形であることから一般には六角堂の通称で知られています。華道、池坊の発祥の地としても知られており、西国三十三所第18番札所です。


この六角堂の由来については下記のような逸話が伝わっています。

敏達天皇の時代、淡路国岩屋浦に閻浮檀金(えんぶだんごん、黄金の意)の如意輪観音像が漂着した。この像は、聖徳太子が前世に唐土にあって仏道修行していた時に信仰していた像であり、太子はこの観音像を念持仏とした。これが後の頂法寺本尊である。太子は16歳のとき、排仏派の物部守屋討伐にあたって、護持仏に「無事討伐できたならば、仏の功徳に感謝して四天王寺を建立いたします」と戦勝祈願したところ勝利した。そして、寺建立のための用材を求め、小野妹子とともにこの地を訪れた。その際、太子は池で水浴をするため、傍らの木の枝の間に持仏の如意輪観音像を置いておいたところ、像は重くなり動かなくなってしまった。観音像は光明を発し、自分は七生にわたって太子を守護してきたが、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。そこで太子は、四神相応のこの地に伽藍を建てることとした。東からやってきた老翁(鎮守神の唐崎明神)が、紫雲たなびく杉の霊木のありかを教えてくれたので、その材を用いて六角形の堂を建立したのがこの寺の始まりである。


老翁(鎮守神の唐崎明神)とは、日吉大社の社伝である日吉社神道秘密記によれば、舒明天皇6年(633年)、琴御館宇志丸宿禰(ことのみたちうしまる)がこの地に居住し「唐崎」と名附けたといいます。琴御館宇志丸宿禰は名前に「うし」と「宿祢」が入っていることからウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王と推定されます。~第388話:スサノオのキーワードは角と竹と、、


四神相応とは第416話:hidemaru3375.com/post/風水:金烏玉兎で述べたように風水のことです。


六角堂の創建は縁起類では飛鳥時代とされていますが、発掘調査の結果、飛鳥時代の遺構は検出されず、実際の創建は10世紀後半頃と推定されています。六角堂が史料に現れるのは11世紀初めからです。


平安京へ遷都しなければならなかった理由として、奈良の平城京では朝廷内で激しい権力争いが起こっていたためとされています。もともと皇位継承をするはずのなかった桓武天皇が即位したのも、この権力争いの影響でした。

 

藤原種継という人物が、延暦3年(784年)「天皇 はなはだ これ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とまで評されるほど大きく政務を委ねられていました。この種継が中心となって、山背国乙訓郡長岡の地への遷都を建議し、桓武天皇の命をうけ長岡の地を視察し、同年長岡京の造宮使に任命され、事実上の遷都の責任者となります。遷都先である長岡が種継の母の実家である秦氏の根拠地山背国葛野郡に近いことから、造宮使に抜擢された理由の一つには秦氏の協力を得たいという思惑があった事も考えられています。


長岡が都として選ばれた最大の理由は水上交通の改善にありました。長岡京の港である山崎津や淀津には、当時太平洋や瀬戸内海からやってくる船がそのまま入ることができました。これによって、水上交通の便は、平城京のころよりも格段に良くなります。この長岡こそがかつて邪馬台国があった巨椋池のことなのです。~第284話:邪馬台国は巨椋池


ところが、長岡京が都であったのはわずか10年間です。その原因となったのが、藤原種継の暗殺でした。その後、長岡京で洪水や政争が続いたため、桓武天皇はこれを早良親王の怨霊のたたりと考えて、長岡京を放棄することを決意します。こうして、794年に長岡京の北東に位置する平安京へと都が移りました。

 

六角堂の 本堂東側、柵で囲われた中に平面六角形の平らな石があり、「へそ石」または「要石(かなめいし)」と呼ばれています。旧本堂の礎石と伝えられ、頂法寺が平安京造営以前から存在し、位置もほぼ移動していないことから、この石が京都の中心であるといわれています。


この寺の本堂である六角堂は寺内塔頭で、頂法寺の本坊にあたる池坊が執行として代々経営・管理に当たってきた。聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことが華道の由来とされ、その寺坊が池のほとりにあったことから「池坊」と呼ばれています。ただし、前述の縁起類には、聖徳太子が沐浴した池にちなんで寺坊を「池坊」と号したことと、小野妹子を寺主としたことは述べられています。


小野妹子は、近江国滋賀郡小野村(大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身。大日本史によれば天帯彦国押人命(=天足彦国押人命)の後裔にあたる。『古事記』孝昭天皇の段に「天押帯日子命は……春日臣……小野臣……の祖なり」とあり『日本書紀』孝昭天皇の段にも「天足彦国押人命はこれ和珥の臣等の始祖なり」とあります。


天足彦国押人命の「押」は「忍=忍坂」のことで、台与のことです。~忍坂(押坂)は忍が丘(四条畷)


なぜここで小野妹子が登場するのかは不明ですが、一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子とされています。

敏達天皇は台与(豊)です。~敏達天皇は台与(豊)


室町時代に入るとこの六角堂で祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が行われるようになり、江戸時代末まで行われていました。祇園祭りは牛頭天王=スサノオ(津田の王

の祭る行事です。


今回もオチがないのですが、聖徳太子は台与(豊)ですので、ここでもウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王と台与のコンビが登場していることを指摘しておくにとどめます。


{参考文献} 頂法寺 - Wikipedia


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




六角堂の隣にあるスターバックスからエレベーターに乗るとこの景色が見られます。




閲覧数:104回2件のコメント

最新記事

すべて表示

仏教伝来異聞

2 Comments

Rated 0 out of 5 stars.
No ratings yet

Add a rating

bottom of page