top of page
tootake

杭全神社~息長氏と河内 

更新日:11月1日

第488話  #杭全神社 #息長田別王 #河俣毘売 #伎人郷 #大々杼

       #台与 #邪馬台国


杭全神社(くまたじんじゃ)は、平安時代の初め貞観4年(862年)に坂上廣野麿の子当道が、素盞鳴尊を氏神として祀ったのが始まりといわれ、平野郷一円の守護神として信仰を集めています。第479話:継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社で書いた楯原神社の近くにあります。


古代の河内地方は大規模な水害や旱魃が度々起こるなど「水」に弱い土地柄だったようです。昨今、全国各地で弥生時代の遺跡が発掘され、当時の水利工事の巧みさが見直されています。杭全神社の杭は土木工事=水利工事との関係を示しています。


河内の息長の一族も、古くから農耕に必要な土地の灌漑や河川の整備を行ってきたと思われ、ヤマトタケル(ヤマトタケルは台与 )の子とされる田別王=息長田別王(オキナガタワケ)の名は、田=農耕地を先代から「別=ワケ」与えられた、つまり引き継いだ王(継体天皇)という意味です。

田別王の子が杭俣(くいまた)長日子です。杭(くい)=土木工事によって地域の開発を進めた実績を端的に表しているのかも知れません。

この杭俣(くいまた)長日子が河派仲彦(カワマタナカツヒコ)と同一人物とされています。杭俣長日子=河派仲彦=河俣毘売です。台与は女性であることがばれないよう記紀ではさまざまに名前を変えています。河派仲彦の子供の「弟比売(弟媛)」は応神天皇*の妃とされています。沼河比売は小楯姫=台与 


河俣毘売(かままたびめ、かわばたびめ)は、綏靖天皇*の皇后です。川俣は大阪府東大阪市の地名です。〒577-0063 この河俣毘売が五十鈴姫(ホトタタライスケ依姫)で台与です。(後述予定)*応身天皇、綏靖天皇は台与です。応身天皇という名前は記紀の作者の一人と思われる淡海 三船(おうみ の みふね)が創作した名前です。


記紀に、継体天皇の名「大々杼(おおど)」をはばかり、大々杼郷を杭俣長日子王に因んで杭俣郷と称した記事がみえます。ここが現在、抗全(クマタ)と呼ばれるところです。


楯原神社と杭全神社のある河内は伎人郷(くれひとごう)と言われた地区です。

天平勝宝八年(七五六)二月に聖武天皇と光明皇后が河内の離宮から難波宮に行幸した際に河内国伎人郷の馬史国人の家で宴したとあります。日本書紀の雄略天皇一四年正月条の、呉からの使や才伎らの住之江の津(現住吉区の住吉大社付近)への到着に関連して造られた磯歯津(しはつ)路(八尾街道)が呉坂(くれさか)と名づけられたとあることから、「くれ」が訛って「きれ」になったとされ、現大阪市平野区の喜連(きれ)を称する地域に比定されています。参照:継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社

きれ=くれ=呉は「呉の勝」の呉でしょう。参照:48話:太田市と遺跡 ~呉の勝


大々杼(おおど)の地名に含まれる「杼」という文字には機織に必要な「ひ」という道具の

また「杼」が「梭」であり機(はた)織りの重要部品です。伎人(喜連:くれ)の地名とあいまって、機織りの技術者集団=秦氏がに存在していたことを示しています。


楯原神社では赤留比売を祭神としており、杭全神社では摂社で赤留比売を龍王社として祭っています。これは、桓武天皇の頃(西暦800年頃)風水害が続いたので、赤留姫命を祭ることになったとされています。赤留比売は下照姫=高照姫で台与(豊)でしょう。


杭全神社の参道を直進したところにある大門は鎌倉時代に建立されたものです。国宝に指定されるはずだったのですが、地元の人はこの話を断りました。年々巨大化するだんじりを通すために、門に手を加えて約60cm高くしたかったからです。


期間中には九台のだんじりの曳行があり、大阪でも指折りの規模を誇るだんじり祭りとして、毎年30万人を超えるとも言われる大勢の人出で賑わいます。国宝という名誉よりも自分たちの祭りの方が大事というのが、河内のおっさんの心意気です。


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




門がコンクリートでかさ上げされていることが分かります。


閲覧数:102回2件のコメント

最新記事

すべて表示

2 Comments

Rated 0 out of 5 stars.
No ratings yet

Add a rating
秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Oct 31
Like

bottom of page