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武殻王(タケカイコオウ)あるいは讃留霊王(サルレオ)

第489話 #武殻王 #タケカイコオウ #讃留霊王 #サルレオ #台与


ヤマトタケル(大和武尊)の子とされる武殻王(武卵王、建貝児王:タケカイコオウ)は、讃王(さんのう)さんあるいは讃留霊王(さるれお)と呼ばれ、讃岐綾君の祖となったとされています。讃岐の綾君とは、絹織物を朝廷に中央に収める部族です。綾織物ということで秦氏=台与を思わせます。香川県綾歌郡飯山町下法軍寺にある、讃留霊王神社に建貝児王(たけかいこおう)が祭られており、讃留霊王(さるれお)=建貝児王(たけかいこおう)ということが分かります。


<讃留霊王の悪魚退治伝説>

昔、むかし、讃岐の国が大変乱れていたとき、瀬戸内海に大きな悪魚が出て、人々を苦しめていた。時の景行天皇は、武殻(たけかいこ)王に命じて、悪魚を征伐させた(悪魚は海賊だろうといわれている)。武殻王とは、景行天皇の皇子で、九州の熊襲を征伐した日本武尊の王子である。15歳であった武殻王は、大変苦心して悪魚を征伐した。その功績によって讃岐の国を治めることになり、城山(きやま)あたりに居を構えた。下屋敷が北原(今の猿王)あたりにあったといわれている。

讃岐にとどまる武殻王を、人々は讃留霊王(さるれおう)と申しあげ尊敬してきた。

北条池のほとり、清浄な地にある塚を昔からサルオウサンと呼んでおり、讃留霊王の墓であるとされている。讃留霊王は、もっぱら土地の開発、池塘(ちとう)の築造など、農業の振興に力をいれた。とされています。出典:綾南町誌


この悪魚は瀬戸内海の海賊のことでしょう。瀬戸内海には第371話:彦狭島命~吉備児島

で書いたように、彦狭嶋命がこの辺りの海域を制覇しています。彦狭嶋命=吉備津彦=南方刀美神(タケミナカタ)=台与です。


第405話:倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ??では、香川県東かがわ市に水主神社(みぬしじんじゃ)があり、社伝ではヤマトトモモソ姫は7歳のとき、大和国黒田の盧戸を出立し、居を讃岐国水主に定めたのち成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆を成したとされています。ヤマトトモモソ姫は7歳で、讃岐に来たとされ、ヤマトタケル:小碓尊(おうすのみこと)は15歳で川上ミタケル(クマソタケル)を討ったとされています。台与は12歳で即位していますので、ヤマトトモモソ姫=台与=ヤマトタケルとしても年齢的に矛盾はありません。


・香川県丸亀市飯山町にある讃留霊王にある碑では讃留霊王は女性としています。

・武殻王は武卵王、建貝児王(タケカイコオウ)とも書きます。香川県讃岐地方に讃留霊王伝説として数々の古文書に記されています。殻も卵も「カイコ」のことです。カイコ=養蚕は秦氏=台与の専売特許です。


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<蛇足の追記>


ところで第342話:聖徳太子は菟道稚郎子?!で書いたように、聖徳太子の后は菟道貝蛸皇女(うじの・かい・たこのひめみこ)です。菟道は、宇治でウツシコオのウチ(内)です。聖徳太子=菟道稚郎子=台与です。


そして貝蛸(カイ・タコ)は武殻王(タケカイコオウ)のことではないでしょうか。タケが蛸(タコ)で殻はカイ(貝)です。武殻王=タコ・カイ王となります。


そして第487話:おしら様は、、、では、おしら様(台与)とイタコの関係を示唆しました。イタコの伝説として次のような話があります。

里に降りた盲人が、つい村人に昨晩のことを話すと、そのまま死んでしまった。そこに「たこ」が現れ、村人たちに対しても、自分のことを他言した者は死ぬ上に村は沼に沈むと言った。そこで村人たちが峠の周囲を鉄柵で覆うと「たこ」は峠に帰れなくなり、そのまま死んでしまいました。村人たちは「たこ」を盲人を神として祀り、これが後のおしら様だという。「たこ」は、武、竹(かぐや姫)で台与のことでしょう。https://www.hidemaru3375.com/post/かぐや姫は、台与(とよ)



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>








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4 Comments

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Nov 01
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三社託宣信仰 - 枚方市 - LocalWiki


神話では、この日子八井命は、阿蘇都媛の父である草部吉見神(国龍神) のことであり、甥で婿でもある健磐龍命とともに九州平定に尽くしたとなっている。阿蘇家を補佐する社家集団である宮川一族が祖神としてあがめているのも実はこの草部吉見神で、阿蘇神社の「田作り祭」など一貫した農耕祭事も本来は社家の祭りといわれる。


山部阿弭古ノ祖小左(景行紀、葦北)、益城郡人山稲主白亀を献ず(宝亀元年)、山部姓の由来(書紀): 市辺押羽皇子の二王子発見物語〔顕宗紀〕


伊予来目部小楯、山部連となる(日本書紀 顕宗記): 弘計王(顕宗23)と億計王(仁賢24)を難より逃れさせたのは日下部連使主-吾田彦親子の功績であったが、播磨国に逃れ名を変え身を隠していた二皇子を見出し救い出したのは伊予来目部小楯であった。後に小楯はその功績によって顕宗天皇より山官の役職を貰い、姓を改め山部連となった。

「新撰姓氏録」 山辺公 和気朝臣同祖 大鐸石和居命(=垂仁天皇皇子鐸石別命)の後也

応神天皇の御世に、海部、山部、山守部、伊勢部を定めたまひき

中国・三国時代(184~280年)の書に「魏(ぎ)の曹操(そうそう)が金錯鉄鏡(きんさくてっきょう)を持っていた」と書かれていますが、大きさは直径約46cmの大きなものだったようです。


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Nov 01
Rated 5 out of 5 stars.

※讃王(さんのう)はスサノオ??

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