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卑弥呼の鬼道:シャーマニズム

更新日:10月26日

第474話 #鬼道 #シャーマニズム #秦氏 #豊国法師


鬼道(きどう)とは、邪馬台国の女王卑弥呼が国の統治に用いたとされる呪術、もしくは政治体制とされています。鬼道の正体については諸説があります。卑弥呼に関する魏志倭人伝の鬼道の記述から、卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方が一般的です。


魏志:劉焉伝に五斗米道と鬼道についての記述があり、卑弥呼の鬼道は後漢時代の初期道教と関係があるとする説があり、鬼道についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を鬼道と表現しています。鬼道とは、呪術ではなく単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈です。


◎卑弥呼のシャーマニズム

古代のシャーマンが鍛冶師と一体であることは多くの専門家が指摘しているところです。日本で言う「巫」の周辺では、氏族神の祭祀とともに鉱山・採鉱・精錬・合金・メッキ・薬品精製・医術といったサイエンスやテクノロジーが発達していました。このブログで第73話:鬼道はサイエンス ~古代天皇は技術者&ビジネスマン当時の天皇家は、みんな大穴持ちです。すなわち鉱山の経営者でした。そしてまた、銅鏡、銅鐸、銅剣の製造業者でもありました。青銅は、合金です。その他の鉱物、朱、水銀、ベンガラ、錫、など様々の知識、技術を持っていました。言い換えれば化学者でもありました。と書いています。


前回でも書いたように秦王国(=邪馬台国)といわれていた豊前には、「秦氏の宗教」ともいうべき古代シャーマニズムと道教と仏教が混淆したハイブリッドな常世信仰があり、豊国奇巫(とよくにのくし・かむなぎ)や豊国法師といったシャーマンが活躍していました。


秦氏は病魔除け呪術=医学や医薬品知識などの高度な文化や医術をすでに持っていたと思われます。


第253話:キサガイヒメはウツシコオの母!で書いたキサガイヒメ・ウムギヒメはそれぞれ「𧏛貝比売(きさかひひめ)」・「蛤貝比売(うむかひひめ)」と表記します。キサガイヒメは赤貝を、ウムギヒメは蛤を神格化したものと考えられています。キサガイヒメは神産巣日神に派遣されて大国主神の治療に従事したとされています。

貝殻は薬の入れ物です。粉末にした赤貝の殻を母乳に見立てた蛤の白い汁で溶き、火傷の治療に使ったという民間療法を表すとする説があります。蛤は和名抄に「海蛤ウムキノカヒ」とあり、古くから薬剤として利用されていました。と書いています。


キサガイヒメ・ウムギヒメは秦氏で豊富な医薬品の知識を持っていたと思われます。

卑弥呼は、ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王の姉です。天才(*下記)のウツシコオ(内色許男命)と同等に頭が良く、語学、海外情報、鉱物、合金などの様々な知識を持っていたと思います。


鬼道とは、サイエンス=科学知識・医学知識です。


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ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王は空海の曽祖父です。ウツシコオの姉である卑弥呼(ウツシコメ)も空海と同等の知能を持っていたと思われます。参照:第318話:空海のルーツは内色許男命!


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>





キサガイヒメ・ウムギヒメ


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댓글 4개

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
10월 18일
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・葛木山にいる神一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。

・小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。ある人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言した。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。

・韓国広足は小角を師としていたが、その後に師の能力を妬んで讒言した」とする説もある


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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
10월 18일
별점 5점 중 5점을 주었습니다.

【大草香皇子】より

…母は日向諸県君牛諸井の女髪長媛。《古事記》では波多毗能太郎子(はたびのおおいらつこ),大日下王ともよぶ。安康天皇は皇子の同母妹である幡梭(はたび)皇女(若日下部命)を天皇の弟大泊瀬皇子(雄略天皇)の妃に迎えようとした


大草香皇子は、仁徳天皇の皇子。


母は日向諸県君牛諸井の娘・髪長媛。


「大日下王」「波多ヒ能太郎子」とも書かれる

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
10월 17일
별점 5점 중 5점을 주었습니다.

若湯坐連わかゆえのむらじの祖・大売布おおめふ命と関係がある地名なのかも知れない。

「湯坐」というのは、湯人にも作り、複姓の大湯坐・若湯坐・額田部湯坐・椋橋湯坐の諸氏と、単姓の湯坐氏がある。湯坐は嬰児を入浴させる婦人を意味する語で、転じて皇子・皇女の養育に携わる氏が、湯坐の名を負ったのであろうという。垂仁記に、本牟智和気王のため御母(乳母)を取り、大湯坐・若湯坐を定めて養育し、さらに鳥取部・鳥甘部・品遅部・大湯坐・若湯坐を設置したと伝える。

しかしそうした仕事では氏族はメシは喰えないだろう、元々というか本職は鳥取や鳥甘とりかい、品遅ほむち、額田ぬかたと同じ鉱山鍜冶の氏族と思われ、金属が高温で溶けたものを湯と呼ぶが、その湯ではなかろうか。

大湯坐については、平城宮出土木簡に記す「若狭国遠敷郡野駅家〈大湯坐連□□ 御□□□〉」「十月十五日」が唯一の例だそうである。今の上中町野木の辺りという。「平城宮跡出土木簡」。天武13年紀には、「大湯人ゆえ連が宿祢の姓を賜った」の記事がある。

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