大化の改新は嘘だった~蘇我入鹿は台与!
- tootake
- 6月13日
- 読了時間: 5分
更新日:6月14日
第712話 #藤原不比等 #遣隋使
最近、一部の研究者の間では、大化の改新(乙巳の変:645年)が後世の創作や潤色された可能性があるという説が提唱されています。日本書紀の記述には編纂時の政治的意図が反映されている可能性があるため、完全に史実とは言えないのではないと思われるようになってきました。
「大化の改新」という名称自体が後世に付けられたもので、実際の政治改革の内容が後の時代に脚色された可能性があるという指摘もあります。また、乙巳の変に関する記述の中には、蘇我入鹿の悪役化が強調されている点があり、これが藤原氏の権力確立のために作られた物語ではないかという見方もあります。
つい最近までは、日本書紀の信憑性が評価され乙巳の変に始まる大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていました。しかし、1967年に、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」と書かれた木簡が掘り出され、日本書紀の乙巳の変部分は編纂に際し書き替えられていることが明確となっています。
このブログでは、馬子は大王(おおきみ) 聖徳太子は菟道稚郎子?!
などの記事を書いており、古事記、日本書紀の記述を全く信用していません。
すでの聖徳太子=菟道稚郎子=台与としてきました。~第342話:聖徳太子は菟道稚郎子、第344話:聖徳太子伝説~堀江と茨田堤
時代が全然違うとの指摘は当たりません。古事記・日本書記は歴史書を装った小説なのです。聖徳太子は小説の登場人物にすぎません。そして、聖徳太子も菟道稚郎子は、台与モデルにしていると思われるのです。大化の改新(乙巳の変:645年)も、蘇我入鹿も台与モデルに創作された人物であると思われます。
第350話:遣隋使とウツシコオ書いたように日本国は、遣隋使で大失敗をやらかしています。この遣隋使は倭国の風俗について説明した際に「此れ太だ義理なし」として煬帝から諭され、また服制の不備など指摘されています。この失敗は倭国側に大きなカルチャーショックを与えたと見られ、遣隋使の帰国直後から様々な改革が行われています。
対外的に歴史書を作ることも必須となってきました。そこで古事記、日本書紀などの歴史書を編纂することになったのですが、古事記、日本書紀の創作(編纂ではない)に大きくかかわった思われる人物として藤原不比等がいます。不比等は、日本の最初の天皇(大王:おおきみ)が台与であることを知っていたのでしょう。
魏志倭人伝には、卑弥呼の後に大王になったのは台与であると書いてあります。魏志倭人伝は、客観的な資料ですから信用できる文献です。日本の初代天皇は台与であるというのは、歴史的事実です。しかし、藤原不比等は、それではまずいと思ったのです。大王が女性でしかも13歳の少女であるというのは、対外的に都合が悪いのです。
そのため、台与が日本初の天皇であることを隠すために、様々な台与の事績を抹消することにします。台与の事績は、様々な人物を創作しその人物の業績とします。→詳細は次回:国譲りの真相~蘇我蝦夷は台与2
蘇我蝦夷もを台与になぞらせて創作された人物で、その蝦夷を暗殺することで、台与を消し去ったのです。天皇中心の中央集権国家を築くために行われた一大政治改革である、「大化の改新」とは、古事記、日本書紀の創作だったのです。
*藤原不比等は、日本書紀の編纂に関与していたとされています。不比等は、律令制度の確立に貢献し、藤原氏の勢力を強めました。日本書紀の編纂には舎人親王が中心となりましたが、不比等も影響を与えたと考えられています。一方、古事記の編纂には直接関与していないとされています。古事記は太安万侶によって編纂されましたが、不比等の影響があったかどうかについては明確な証拠がありません。
<年表>
・第1回;遣隋使600年、第2回:607年、第3回:608年、最後の遣隋使:614年、
・大化の改新:645年(実際にはなかった!)
・不比等:659年に生まれる。
・673年:天智天皇の弟である天武天皇が即位し、国史の編纂を命じる。
・古事記:712年、日本書紀:720年に完成
次回に続く→国譲りの真相~蘇我蝦夷は台与2
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、吹田、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけとしています。
~古事記、日本書紀の作者(編纂者ではない)たちも魏志倭人伝しか資料がなかったのです。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)=難升米、卑弥呼=天照大神、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
※台与とウツシコオのコンビとは、以下です。前者が台与です。
神武天皇と八咫烏、フツヌシとタケミカズチ、神功皇后 武内宿祢、応神天皇と武内宿祢、
アメノウズメと猿田彦、ニギハヤヒ(饒速日)とナガスネヒコ(長髄彦)
聖徳太子と蘇我馬子・秦河勝、五十猛(イタケル)とスサノオ(素戔嗚)
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>




彦狭知(ヒコサチ)の物語(1)~経津主神
生根神社 (大阪市西成区) - Wikipedia
コマツ南京
<台与シリーズ>
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