卑弥呼の残像:元伊勢(3)~笶原神社
- tootake
- 4月18日
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更新日:4月18日
第656話 #タニハ #ヤマトトモモソ姫は台与
笶原神社(やはらじんじゃ)は、京都府舞鶴市紺屋にあります。普通は「神明サン*」と呼ばれています。笶と笑の文字が似ているので、エバラ神社とかエミハラさんとかとも呼ばれています。この神社も元伊勢で、「神明さん*」の呼称が残っています。舞鶴町字紺屋舞鶴山の麓に鎮座し、祭神は天照皇大神(アマテラス=卑弥呼)、豊受姫神(=台与)、月夜見神で合殿に清和天皇、字多天皇が祀ってあります。笶原神社にある篆額(てんがく)は清和天皇の宸筆で「総社笶原魚居匏宮(やはら・まないよさのみや)の七字が題せられています。
*神明とは、天照大神のことです。神明神社(しんめいじんじゃ)は、天照大御神を主祭神とし、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)を総本社とする神社です。神社本庁によると神明神社は、日本全国に約5千社、一説には約1万8,000社あるとされています。祭神の天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、太陽を神格化した神であり、皇室の祖神(皇祖神)とされているため、農耕儀礼と密接に結びつき広く信仰を集めています。
京都府の舞鶴市は、丹後海部氏の重要な拠点でした。舞鶴市はかつては加佐(かさ)郡で、加佐の本来の訓みは「うけのこほり」であったといいます。この辺りではかつて水銀が産出したようです。第445話:伊加理姫、第446話:笠水彦・笠水姫:笠水は水銀
加佐(かさ)郡の加佐は笠です。笠水=水銀というわけです。
丹後國風土記殘缺には次のように書かれています。
この国は、往昔に天火明神(アメノホアカリ)らが降臨した地である。丹後国は元は丹波国と合わせて一つの国であった。日本根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇)の御世、詔によって丹波国を分けて5つの郡を置き、それを丹後国とした。丹波と呼ばれる所以は、往昔 豊宇気大神が天降って この国の伊去奈子嶽(いさなこだけ)に坐した時、天道日女命らが五穀の種や桑蚕などを請うた。そして、この嶽に真名井を掘り、その水を水田や陸田にそそいで種を悉く植えると、秋には八握にもなる垂穂が生い茂り、とても快い様になった。これを見た大神も大いに歓んで「あなにやし植弥之子の田庭」と言った。そして、しばらく後に大神は高天原に登って行った。故に田庭という。丹波、旦波、但波 以上の文字は皆 多爾波(タニハ)の訓である。
天道姫命は天香語山命に弓矢を授けて、その矢を三たび発つべし、矢の留る処は必ず清き地である、と述べた。天香語山命が矢を発つと、矢原山に到り、根が生え枝葉青々となった。それで其地を矢原(矢原訓屋布)と云う。それで其地に神籬を建てて豊宇気大神を遷し、始めて墾田を定めた。巽の方向三里ばかりに霊泉が湧出ている、天香語山命がその泉を潅ぎ、その井を真名井と云う。亦その傍らに天吉葛が生え、その匏に真名井の水を盛り、神饌を調し、長く豊宇気大神を奉った。それで真名井原匏宮*と称する。ここに於て、春秋、田を耕し、稲種を施し、四方に遍び、人々は豊になった。それで其地を田造と名づけた。
笶原神社の背後の愛宕山(笶原山)は笶原山は天香山*ともいい隣の桂林寺の山号ともなっています。
天香山→天香山命=高倉下は台与です。*第517話:五十猛のグロは大歳=台与(豊)
*原匏宮=笶原社は吉佐宮ともいいます。與曾豆羅(よそづら)は天吉葛ともいい、これも瓢箪(匏:ひさご)のことです。 天吉葛(アマノヨサヅラ=ヨソヅラ)とは、「天」=高天原に存在する、「よい(=便利な)つる植物」を意味し、神格化された植物と考えられています。祝詞との関連で(水を汲む道具としての)瓢箪(ヒョウタン)と解釈する説もあります。
<考察>
・笶原神社には、天照大神は祀られていました。やはり天照大神も丹波にいたことがあるのでしょう。天照大神=卑弥呼は邪馬台国の王です。
そして丹波では日本でも、最大級の遺跡が見つかっています。
竹野川中流域に位置するこの地域には、奈具岡遺跡(京都府弥栄町黒部奈具)をはじめ、奈具岡北1号墳、奈具遺跡、奈具谷遺跡、奈具墳墓群、奈具谷4号墳・5号墳など多くの遺跡、墳墓、古墳が見つかっています。奈具岡遺跡では、弥生時代中期にあたる約2000年前の玉作り工房跡が発見され、水晶の原石、玉製品の生産工程における各段階を示す未製品や、加工に使われた工具などが多数出土しています。生産された水晶玉は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉で、ここでは原石から製品まで一貫した玉作りが行われており、国内でも有数の規模と年代を誇っています。水晶玉とともに中国や朝鮮半島から入ってきたと考えられる鉄製工具類なども大量に見つかっており、これは、九州北部よりも先に鉄加工の技術が伝来していた可能性を示すものとして注目されています。そしてこれらの出土物と同じものが奈良県の鍵・唐古遺跡遺跡からも見つかっているのです。~桑田皇女と奈具遺跡
鍵・唐古遺跡遺跡は孝霊天皇の黒田廬戸宮の近くです。
唐古遺跡で出土した玉との関連があると思われ、調査されています。鍵・唐古遺跡は孝霊天皇の黒田庵戸宮の近くで、ヤマトトモモソ姫は7歳までこの地にいたとされています。ヤマトトモモソ姫は台与(豊)です。~黒姫~真黒比売命・迦具漏比売
ヤマトトモモソ姫はこの黒田廬戸宮から四国・香川県東かがわ市に水主神社(みぬしじんじゃ)があり、倭迹々日百襲姫命を祀っています。社伝ではヤマトトモモソ姫は7歳のとき倭国大乱を逃れるため、大和国黒田の盧戸を出立し、居を讃岐国水主に定めたのち成人まで住み給いて農業・水路・文化の興隆を成したとされています。このときヤマトトモモソ姫は、うつぼ船*に乗ってきたとされています。~倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ
*うつぼ(植物)と瓢箪(ひょうたん)は、実は同じ植物の異なる品種です。どちらもウリ科ユウガオ属に属しています。
勘注系図を信じるなら豊受大神(=台与)は、丹波から山城(水主神社 :城陽市)に行きそこから大和国黒田に移り、倭迹迹日百襲姫命となって四国(水主神社:東かがわ市)に渡ったことになります。
四国の讃岐国香河郡に笶原郷という地があり、ノハラ(能波良、乃波良)と読みます。笶原吉田東の地名辞書には笶原はノハラと読むと訓注があります。~:笶原神社(そら知らなんだ ふるさと丹後)
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。
※このブログでは、魏志倭人伝:古事記・日本書紀の登場人物は三人だけ!??としています。
記紀の登場人物をスサノオ(津田の王)=ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>

https://www.okayama-jinjacho.or.jp/search/16420/
岡山内宮
https://jinja-net.jp/jinjashi-kensaku/jsearch3jinjashi.php?jinjya=29085
<台与シリーズ>
hidemaru3375.com/post/天鈿売命(うずめ)は台与(豊)
https://www.hidemaru3375.com/post/かぐや姫は、台与(とよ)
https://www.hidemaru3375.com/post/磐井の乱と台与
https://www.hidemaru3375.com/post/豊受姫(豊受大神)は崇神天皇
https://www.hidemaru3375.com/post/火明命は饒速日なのか??
https://www.hidemaru3375.com/post/豊鍬入姫命-日光と男体山・女峰山
hidemaru3375.com/post/台与と秦氏 敏達天皇は台与(豊)
衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊) 雄略天皇は台与(豊)!
孝昭天皇は台与:日原は目原 飯豊王女は台与(トヨ)なのか?
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(2)大原足尼命はトヨ 大宜都比売(おおげつひめ)は台与
倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトモモソ姫)はトヨ?? 神八耳命は台与(豊)
饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作 台与は饒速日②~交野市倉治
小楯姫は台与:小楯は枚方 四道将軍:日子坐王は台与!
少彦名大神(スクナヒコ)は台与! 大彦は台与!??
ウマシマジは台与! 阿蘇都媛は台与
沼河比売は小楯姫=台与 タケミカヅチは台与!!
ヤマトタケルは台与 瓊瓊杵尊:ニニギは台与
継体天皇はトヨ(台与)??! 継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社
継体天皇は台与3~田井(寝屋川市) 英彦山と台与
山部赤人は台与! 八幡神は台与!!
とよ(乎止与命・台与・臺與) 台与の物語