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忍熊王は卑弥呼・天忍穂耳尊??

更新日:2024年12月14日

第530話  #忍熊王 #卑弥呼 #天忍穂耳尊 #邪馬台国

 

忍熊皇子(おしくまのみこ)は仲哀天皇皇子で、応神天皇との間での対立伝承で知られています。日本書紀によれば、新羅征討(三韓征伐)中に仲哀天皇が崩御し、神功皇后は筑紫で誉田別尊(ほむたわけのみこと、応神天皇)を出産します。それを聞いたと忍熊皇子は、次の皇位が幼い皇子に決まることを恐れ、共謀して筑紫から凱旋する皇后軍を迎撃しようとします。


一方、神功皇后は海路(瀬戸内海)の要所に天照大神・住吉大神を鎮祭し、紀伊に上陸した。皇子軍は更に退いて菟道(うじ:宇治)に陣立てし、武内宿禰と武振熊(和珥臣の祖)を将軍とする皇后軍に挑んだが、武内宿禰の策略によって弓・刀を失い、逃走した果てに逢坂(現・滋賀県大津市の逢坂)にて敗れたと記紀には記載されています。


一般には、上記の内乱伝承は神功皇后・応神天皇の集団と忍熊王の集団との政治的な対立抗争といわれています。


これまでのブログでの検証により、武内宿祢はスサノオ、神功皇后は台与(豊)です。

スサノオと台与(豊)のコンビは、九州から東北までを制圧しています。

このスサノオ・台与(豊)のコンビに対抗できる国内の勢力があったとすれば、卑弥呼(ウツシコメ)でしょう。~第72話:卑弥呼は萬幡豊秋津師比売命!!


第366話:狗奴国と女王国で書いたように、スサノオと天照大神(卑弥呼)は、武力闘争したようです。忍熊王は卑弥呼としたいところですが、忍熊王は天忍穂耳尊(天忍骨命)

ではないでしょうか。天忍穂耳尊は、本来は天照大神の後継ぎになるべき人物です。

記紀では、天忍穂耳命は、「天降りの準備をしている間に、子の邇邇芸命が生まれたので、この子を降すべきでしょう」それで二神は、邇邇芸命に葦原の中つ国の統治を委任し、天降りを命じた。天忍穂耳が素戔嗚の子であるというのは保留して、上記を要約すると、

・本来は天忍穂耳尊が葦原中国=邪馬台国=ヤマトの大王になるはずであった。

・しかし高皇産霊尊(スサノオ=ウツシコオ(内色許男命)を自分の孫に当たる瓊瓊杵尊(ニニギ:瓊瓊杵尊)をヤマト(邪馬台国)の王に即位させたということになります。

ニニギは台与(豊)です。~第436話:瓊瓊杵尊:ニニギは台与


天忍穂耳尊は実際は、卑弥呼(ウツシコメ)の子でヤマト(邪馬台国)の後継者だったのです。しかし、ウツシコオ(卑弥呼の弟)にニニギ(台与)が生まれたので、ニニギを亡き者にしようと軍勢を差し向けたとすると、ウツシコオ(スサノオ)Vsウツシコメ(卑弥呼)となり、武内宿祢・神功皇后Vs忍熊王(天照大神=卑弥呼)の子ということになります。


逃げ場を失った忍熊王は、瀬田(瀬田川)で身を投げ、その遺体は数日後に菟道河(うじがわ:宇治川)から発見されたといいます。


第366話:狗奴国と女王国では、次のように書きました。(小説です。)


魏志倭人伝にある女王国は、第362話で書いた滋賀県の栗東市にある伊勢遺跡 だと私は思います。伊勢遺跡~瀬田川が京治バイパス

246年(魏の正始6年)卑弥呼は、夜のうちに兵を率いて栗東市から野洲川から琵琶湖をへて瀬田川を下ります。瀬田川が木津川になる辺りからはウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王の本拠地です。卑弥呼は兵を陸路を行く部隊とそのまま木津川を下る部隊に分け、卑弥呼自身は陸路でウツシコオのいる交野・枚方を目指します。

木津川を下った部隊は、ウツシコオがかねてから用意していた騎馬隊に祝園(ほふりその)辺りで撃破はされ、卑弥呼は以って死にます。卑彌呼以死


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>




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羽衣伝説

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Dec 13, 2024
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Dec 13, 2024
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Dec 12, 2024
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奈良市に「押熊町」という地名が残されています。

忍熊王・香坂王の出身地とする説が有力。二王の舊跡地があります(後ほど記事を上げます)。ちなみに隣は「神功」という地名、その南方には神功皇后の治定墓が築かれています(記事未作成)。

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