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法隆寺を建てたのは不比等?!~斑鳩町

更新日:2024年12月25日

第541話 #法隆寺 #藤原不比等 #台与(豊) #邪馬台国


奈良県の斑鳩町は聖徳太子とのゆかりが深い土地とされています。

斑鳩町には、聖徳太子が造営した宮殿「斑鳩宮」があったとされ、聖徳太子はこの宮に住んでいたと言われています。そして、斑鳩宮の西方には聖徳太子が建立した法隆寺、また尼寺として建てられた中宮寺、聖徳太子が法華経を講じた岡本宮の跡地に建立された法起寺など、太子ゆかりの寺院がとってつけたようにあります。


法隆寺と法起寺は「法隆寺地域の仏教建造物」として、1993年に我が国ではじめて世界遺産(文化遺産)に登録されました。法隆寺の東院伽藍にある夢殿は、斑鳩宮にあった建物に由来し、聖徳太子がその中で瞑想をしたと伝えられ、夢殿の本尊である救世観音菩薩立像は太子の現し身といわれています。その他、斑鳩町には聖徳太子ゆかりの歴史文化資源()が多数あります。


中宮寺(ちゅうぐうじ)は、法隆寺北にあり、聖徳太子が母后のために創建したとされる尼寺です。ある開基(創立者)は聖徳太子または間人皇后とされていますが、創立から現代に至るまで法隆寺と一体ともいえる寺です。


第534話:斑鳩寺・稗田神社~兵庫県太子町では斑鳩寺のことを書きました。

この兵庫県太子町も聖徳太子と非常に関係の深い地であることは

で述べてきました。兵庫県の太子町では確かに聖徳太子=台与(豊)の痕跡を感じ取ることができます。しかし、奈良県の斑鳩町からは、聖徳太子=台与(豊)の気配が感じとれません。法隆寺は作り物のような気がします。法隆寺は、大阪の天王寺のように市民に親しまれているといった感じはなく、ひたすらに気高い雰囲気を漂わせます。→後述予定

四天王寺も聖徳太子が建てたとされていますが、天王寺はんと呼ばれて気軽に立ち寄ることができます。~第478話: 天王寺の亀と酒船石


それはどういうことかというと、秦氏の関与が全く感じられないからです。

第540話:広隆寺と聖徳太子立像で書いた広隆寺には秦氏との関与を示す資料があります。法隆寺の開基は、推古天皇と聖徳太子とされていますが、どちらも架空の人物です。


播磨国風土記には「土地は中の上です。枚方と名づけたわけは、河内国茨田(まむた)郡枚方の里の漢人(あやひと:百済等からの渡来人)がやってきて、初めてこの村に住みました。そこで平方(枚方)の里といいます。

斑鳩の鵤(いかる)とは鳥の名です。イカルという名の由来は鳴き声が「イカルコキー」と聞こえるからされています。枚方市はかつては伊賀(イカ)の郷と呼ばれていました。

イカは、第263話:中臣氏~中臣烏賊津(ナカトミノイカツ)のイカ、第7話:hidemaru3375.com/post/伊香色雄命(イカガシコオ)のイカです。


つまり、枚方の伊賀(イカ)の郷=枚方市伊加賀(イカガ)から、スサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)、台与(豊)の一族がある時期兵庫県の太子町に移住したという事実があり、台与(豊)の代わりに聖徳太子なる人物を作り上げた藤原不比等は、大和国(奈良県)にも聖徳太子の痕跡を作るために斑鳩町を作り、そこに法隆寺、中宮寺を建設したのです。


藤原不比等はそこまでやる人物です。出雲神話を信じさせるために、出雲大社を島根県に建設し、熊襲、隼人の伝説を作るために、山城国(京都府)大住の住人を九州に移住させ大隅とさせるといった大技(おおわざ)を繰りだすような人物です。

第304話:隼人族は呉の勝第305話:隼人族は疑似民族集団


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<追記>

・兵庫県の斑鳩寺も秦氏との関与を示す資料はありません。

・奈良県の法隆寺は当初は斑鳩寺(鵤寺)と呼ばれていました。


※どちらの斑鳩寺を建設したのは、藤原不比等だと思われます。

不比等の生誕は斉明天皇5年(659年)で死没は養老4年8月3日(720年9月9日)です。

708年(和銅元年)詔により法隆寺を再建したされています。このとき不比等49歳: 正三位大納言に昇進、この時に斑鳩寺(法隆寺)を作った可能性があります。

・斑鳩町には聖徳太子ゆかりの歴史文化資源が多数ありますが、法隆寺献納宝物は1878年(明治11年)、当時の皇室に献納されたものです。聖徳太子に関する古文書(懐風藻や上宮聖徳法王帝説もすべて後世に創作されたものです。


◎私は、世界遺産でもある法隆寺をけなしているのでは決してありません。法隆寺の真実はたぶん上記のようだったはずと思っているだけです。法隆寺の美しく清楚な佇まいからは不比等の聖徳太子=台与(豊)への畏敬の思いが読み取れます。



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

<目次>






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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Dec 23, 2024
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