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乙姫・弟姫・弟彦・乙彦

第500話 #乙姫 #弟姫 #弟彦 #乙彦 #邪馬台国 #台与(豊)


第2代天皇である綏靖天皇の皇后は、日本書紀では五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)、古事記では師木県主の祖の河俣毘売(かわまたびめ)としています。~河俣毘売(かわまたびめ)~放出(はなてん)


河俣毘売と五十鈴依媛命は同一人物です。河俣毘売こと五十鈴依媛命は魏志倭人伝のいう台与(豊)で間違いないと思います。この五十鈴姫には、姉がいたとされています。

姉は大女(エムスメ):綏靖天皇の母で、妹が、五十鈴姫(オトムスメ:イスズ依姫)

そういえばコノハナサクヤ姫にも姉がいました。醜い石長比売です。~木花之佐久夜毘賣(この花咲くや姫) 第205話:石長比売は美人だった!~貴船神社


記紀に弟姫(乙姫)が何人も登場します。弟姫(乙姫)とは、台与(豊)のことではないでしょうか。と思って調べてみました。


◎弟姫の名がつく姫を列挙してみると下記のようになります。


弟比売 - 垂仁天皇妃。開化天皇の孫:美知能宇斯王の娘(古事記:垂仁巻)。

弟媛 - 景行天皇皇后八坂入媛の妹。父は八坂入彦皇子。景行天皇から妃として迎えられたが固辞し、代わりに同母姉の八坂入媛を推薦した(日本書紀:景行紀)。

弟比売 - 大碓命妃。三野国造の祖大根王の娘(古事記:景行巻)。

弟姫 - 景行天皇の皇女。母は八坂入媛(日本書紀:景行紀)。古事記:景行巻では「弟比売」。

弟媛 - 仲哀天皇妃。来熊田造祖大酒主の娘(日本書紀:仲哀妃)。

弟姫 - 応神天皇妃。皇后仲姫の妹(日本書紀:応神紀)。古事記:応神巻では「弟日売」。

弟媛 - 応神天皇妃。河派仲彦の娘(日本書紀:応神紀)。仲姫の妹の弟姫とは別人。

弟媛 - 呉王から応神天皇に与えられた四人の織工女の一人(日本書紀:応神紀)。雄略天皇12年正月条にも酷似した記事がある。

弟姫 - 允恭天皇妃。皇后忍坂大中姫の妹。通称、衣通郎姫(そとおしのいらつめ)(日本書紀:允恭紀)。

 ~衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊)

弟媛 - 反正天皇妃。皇夫人津野媛の妹(日本書紀:反正紀)。古事記:反正巻では「弟比売」。

弟橘媛 - ヤマトタケル妃~ヤマトタケルは台与 

*このうち、衣通郎姫は台与で継体天皇としています。~衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊)継体天皇はトヨ(台与)??!  継体天皇は台与2~大々杼郷:楯原神社

◎上記の人物はすべて台与(豊)と思われます。


*垂仁天皇はウツシコオです。~第368話:垂仁天皇はウツシコオ:内色許男命

*応神天皇、景行天皇、仲哀天皇は台与です。←後述予定


記紀には、弟彦(乙彦)も登場します。

海部氏勘注系図には日本得魂命の次の世代に乙彦命(おとひこのみこと)、日女命(ひめのみこと)が記されます。その割注にそれぞれ亦名として、孝元天皇の和風諡号の彦国玖琉命(ひこくにくるのみこと)(大倭根子日子国玖琉命)、その兄弟の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)を載せますので、その親の孝霊天皇が日本得魂命だと推測出来ます。つまり乙彦(弟彦)は孝元天皇です。参照:海部氏勘注系図の解説1 初代天皇(孝昭天皇)の世代 – 古代史考証 神武天皇と卑弥呼の時代 著者 佐藤洋太


・日本書紀では、八咫烏は、磯城の家に行き、彼を従わせることに成功したことになっています。さらに、恩賞を得て、弟磯城は磯城県主になっています。弟磯城~弟磯城は内色許男命!

・建御名方神=乙彦命も海部氏勘注系図に「一云、彦火明」とあり、建御名方神=火明命は同一人物~「かぐや姫と浦島太郎の血脈」佐藤陽太著 p274と書いてありますので乙彦命(弟彦)=火明命となります。火明命は台与(豊)です。~hidemaru3375.com/post/火明命は饒速日なのか??

日本輿地通志 畿内部 山城國;「弟國故都」項に「弟國故都運亘上羽井内及上上野等有地名西京白井村有地名御垣本  継体天皇 十二年三月遷都弟國」とあり継体天皇も弟彦かもしれません。


今回の結論はオト姫=オト彦=孝元天皇=継体天皇=台与(豊)です。

では一体、五十鈴姫=台与の姉は誰でしょう。それは卑弥呼しかいません。

そして、卑弥呼はウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王の姉です。

*ウツシコメ(欝色謎命:卑弥呼)はウツシコオの姉です。天照大神(卑弥呼)の弟はスサノオのです。~第72話:卑弥呼は萬幡豊秋津師比売命!!


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>






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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
18時間前
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神功皇后摂政前紀 仲哀天皇9年12月14日条、神功皇后摂政元年3月5日条

仲哀天皇の崩御を聞いて反乱を起こした?坂皇子・忍熊皇子兄弟に対し、武内宿禰は皇子(のちの応神天皇)を抱いて南海に出て紀伊水門に至る。そして武振熊(和珥臣遠祖)とともに数万の軍を率い、山背、菟道(宇治)を経て、逢坂(京都府・滋賀県境の逢坂山)にて忍熊皇子軍を破った[2]。


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