第485話 #邪馬台国 #天孫 #藤原不比等 #天忍穂耳尊 #草壁皇子
通説では、台与は卑弥呼の縁者とされています。このブログでは台与はニニギとしています。ニニギ( 瓊瓊杵尊:ニニギは台与)は天孫とされています。私は天孫とは神の孫という意味ととらえ、神=高御産巣日神(たかみむすびのかみ)=高木神=思金=ウツシコオ(内色許男命)=スサノオ(津田の王)の孫として、このブログを書いてきました。
ではニニギ(台与)の父親は誰でしょう。記紀では、天忍穂耳尊(あめのおしほほみみ)と記載されています。
天忍穂耳尊は高皇産霊神の娘である栲幡千千姫命との間に瓊瓊杵尊をもうけました。
高皇産霊尊はこの孫を葦原中国の主にしようと画策します。(日本書紀:神代紀第九段)しかし天忍穂耳尊の事績は無く、系譜上のみの神となっています。
本来は天忍穂耳尊が葦原中国の大王になるはずだったのに、天忍穂耳尊は大王になれずニニギが葦原中国=大和朝廷=邪馬台国の大王になったのです。
これにそっくりな話があります。
草壁皇子は、天智天皇元年(662年)、大海人皇子の第二皇子として誕生しています。
皇后の実子であることから後継者と目され、天武天皇8年(679年)、同世代の男性皇族が呼び集められた吉野の盟約にて、事実上の後継者となります。
天武天皇が崩御。事実上皇位を継承した草壁皇子でが、草壁皇子は皇位に就くことなく、持統天皇3年(689年)4月13日に27歳で早世してしまいます。
皇統を継ぐべき子の珂瑠(軽)皇子(のちの文武天皇)は幼少であったことから、祖母である皇后が持統天皇として即位することになります。その後も、草壁皇子に始まる皇統を継ぐべき男性皇族(文武天皇、基王、安積親王)の早世、女性皇族の即位など、皇統をめぐる政治的混乱が以降一世紀にわたり続くことになります。
つまり珂瑠皇子(軽皇子)の正当性を疑う勢力があり、大和朝廷は安定していなかったのです。そこで考え出されたのが、天孫降臨の神話です。
草壁皇子~本来即位すべき人物=天忍穂耳尊
珂瑠(軽)皇子~実際に大和朝廷の大王(天皇)になった人物=ニニギ(=台与)
この神話を広く民衆に信じさせることによって、天武天皇の孫である珂瑠(軽)皇子の皇位の正当性をアピールしたかったのです。
つまり天孫降臨の神話は、ニニギ(台与)とは全く関係のない話なのです。
結論として、ニニギ(台与)はウツシコオの子、あるいは孫でウツシコメ(卑弥呼)の子である可能性があるとしか言えません。
この話を創作したのは、記紀の作者と思われる藤原不比等です。
さらに不比等は自分の孫でもある聖務天皇(首皇子)に、我が子の光明子を嫁がせ天皇家との藤原家の姻戚を強め、藤原王朝と呼ばれるべき基盤を築くのです。
{参考文献}神一行著 「消された大王ニギハヤヒの謎」
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草壁皇子の立太子そのものが軽皇子(文武天皇、草壁皇子の皇子)の即位を正当化するために後世作為されたもので、鸕野讚良皇后が草壁皇子に天武天皇の殯宮の喪主を務めさせることで、初めてその後継者であることを内外に明らかにしたとする説もあります。
また、文武天皇の即位後に持統上皇と共に後見となった文武の生母である阿閇皇女(草壁皇子妃、後の元明天皇)に待遇と称号を与えるために、夫の草壁皇子を皇太子として作為したとする説もあり、その結果、阿閇皇女には「皇太妃」という称号が与えられました。
文武天皇は、697年にわずか15歳で天皇に即位しました。これは、祖母である持統天皇から譲位された結果です。
文武天皇は、天武天皇と持統天皇の孫であり、草壁皇子の第二子で長男でした。(※第一子は姉で、後に元正天皇として即位します)父である草壁皇子は早くに亡くなってしまったため、祖母である持統天皇から孫である文武天皇に直接譲位されることになりました。
文武天皇の治世の中で、藤原不比等との関係は非常に重要です。藤原不比等は、文武天皇の下で大臣として仕え、日本初の律令国家の基盤を固める上で中心的な役割を果たしました。特に、大宝律令の制定において、藤原不比等の助言が文武天皇に大きな影響を与えたとされています。二人の協力関係は、日本の政治システムにおける基礎を築いたと言っても過言ではありません。また、文武天皇は藤原不比等の娘、宮子を妃として迎え入れています。これにより、藤原家と皇室の結びつきが強化され、この後、藤原氏が大きな権力をもつ契機ともなります。
藤原不比等は、古事記、日本書紀の創作(編纂ではありません)に大きくかかわっています。古事記、日本書紀は歴史書に見せかけた不比等の思想を述べたものです。
※これまでの記事はこちらです。
※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。
・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。
・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。
<目次>
関連項目:瓊瓊杵尊:ニニギは台与
久我神社と紀伊
・倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス 岸本直文 Processes of Starting the Kofun Period and Building a Nation in the Wa Stat
『勘注系図』によれば、海部一族の長、建田勢命は、始め丹後の宰(みこともち)となり、後に久世郡水主(くぜのこうりみずし)、すなわち現在の、京都府城陽市水主(みずし)に移る。更にその後、大和に移り住んだとされる。
卑弥呼王権を支える人物として、大和に移り住んだと思われる。これらの伝承から、海部の当主であつた建田勢命(大宇那比命)が、大和に移り住んだため、丹後の当主を、次男の建宇那比命が継いたのではないかと思われる
<台与シリーズ>
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