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敏達天皇は台与(豊)

第496話 #敏達天王 #饒速日(ニギハヤヒ) #台与 #邪馬台国

      #他田坐天照御魂神社 #新屋坐天照御魂神社


敏達天皇は第30代の天皇です。別名は他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)

欽明天皇と石姫皇女との間の子であるとされています。欽明天皇は継体天皇と手白香皇女(仁賢天皇と春日大娘皇女との間の娘)との間の息子で、石姫皇女は宣化天皇(継体天皇の皇子)と橘仲皇女(手白香皇女の同母妹)との間の娘であるため、父方・母方の双方からそれぞれ継体天皇・仁賢天皇・雄略天皇の血を引いていることになっています。


敏達天皇子に押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、麻呂子皇子)

菟道磯津貝皇女(うじのしずかいのひめみこ、宇遅王)

皇后に菟道貝蛸皇女(うじのかいたこのひめみこ、菟道磯津貝皇女・静貝王) 聖徳太子の妃、押坂彦人大兄皇子の妃、桑田皇女(くわたのひめみこ)、大派皇子(おおまたのみこ、大俣王)などがいます。菟道磯津貝皇女(菟道皇女 )は、台与(豊)です。


第342話:聖徳太子は菟道稚郎子?!で書いたように、聖徳太子の后は菟道貝蛸皇女(うじの・かい・たこのひめみこ)です。菟道は、宇治でウツシコオのウチ(内)です。聖徳太子=菟道稚郎子=台与です。

そして第489話:武殻王(タケカイコオウ)あるいは讃留霊王(サルレオ)では貝蛸(カイ・タコ)は武殻王(タケカイコオウ)のことだともしました。タケが蛸(タコ)で殻はカイ(貝)です。武殻王=タコ・カイ王となります。


押坂彦人大兄皇子も台与(豊)です。~忍坂(押坂)は忍が丘(四条畷)


※奈良県桜井市に他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ:奈良県桜井市太田)があります。かつてこの地には敏達天皇の宮である訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや)があったとされ、敏達天皇が設置した日祀部が置かれた場所とされています。祭神は、志貴連祖饒速日命(ニギハヤヒ)、天火明命です。


第221話:饒速日は稲作の神では、次のように書きました。

三輪山周辺にある他田坐天照御魂神社(おさだにますあまてるみたまじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社で、祭神は饒速日です。この地は第30代敏達天皇の訳語田幸玉宮(おさださちたまのみや)の伝承地とされています。

この他田坐天照御魂神社は「日読み」の神社です。石見の鏡造り神社である石見と他田を結ぶと、その線は三輪山山頂にいたり、その頂上から朝日を、石見からは冬至、他田からは立春・立冬に見ることができます。その拝礼地となっているのが当社近くのの石塚古墳です。考古学者の森浩一氏は、この古墳を「冬至・夏至」の祭祀を行った祭壇があった円丘ではないかとみておられます。つまり、ここから三輪山と太陽の位置関係を巨大な自然のカレンダーとして観測できる地なのです。そしてその観測者を日祀部というのですが、敏達天皇がわざわざこの地に遷都した理由は「日読み」だと思われます。(古代史研究家の大和岩男氏の説の引用です。)


※茨木市には新屋坐天照御魂神社(にいやにますあまてるみたまじんじゃ:大阪府茨木市西福井)があります。最新は饒速日(ニギハヤヒ)です。


第23話饒速日は天照大神では、次のように書きました。

饒速日は天照大神は述べた茨木市にある新屋坐天照御魂神社は福井神社とも呼ばれ饒速日が天下った場所とされています。福井(茨木市)の天照御魂神社は、三島の重要な神社で太陽祭祀に関わっており、この神社を通る南北線に対してそれぞれ東方へ30度・45度・60度の位置にある天岩門別神社は30度、溝杭神社(茨木神社内)は45度、西川原にある天照御魂神社は60度です。饒速日を祀るこの神社はまさに太陽信仰の祭祀場だったのです。


太陽観測「日読み」の技術がなぜ重要かというと稲作です。日本では古くから重要な食糧作物であり、稲は太陽の光を利用して成長します。稲作において太陽の高度や日照時間は重要な要素です。饒速日を祀る物部一族はこの日読みの技術を持っていたのです。

敏達天皇はこの茨木市の新屋坐天照御魂神社が太陽信仰の祭祀場のことを知っていたのでしょう。三島の地が疫病(コロナ)の大流行により放棄されてしまい代わりの三輪山周辺にある他田坐天照御魂神社に同じような太陽観測の場を作ったと思われます。邪馬台国で疫病発生 (hidemaru3375.com)


・桜井市の他田坐天照御魂神社よりも茨木市のある太陽信仰の祭祀場の方が古いとおもわれています。

・敏達天皇は、敏達天皇4年、卜占の結果に従い、訳語田幸玉宮(おさたのさきたまのみや、現在の奈良県桜井市戒重の他田坐天照御魂神社。他田宮)へ遷ったとされています。


おわかりでしょうか。稲作のために必要な太陽観測「日読み」の場所を饒速日は最初、茨木市に作ったのですが、疫病が大流行し饒速日は「日読み」やむなく奈良県の桜井市に移転したのです。台与(豊)は稲作に尽力してきたことはこれまで、このブログで何度も述べてきました。~hidemaru3375.com/post/神武東征と稲作文化  饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作


・継体天皇が枚方(樟葉)に宮を置き、その後、最後に移った宮は、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)は、奈良県桜井市です。敏達天王は、初め百済大井宮(くだらのおおいのみや)から語田幸玉宮(桜井市)に移っています。


・磐余(イワレ)は神武天皇(イワレヒコ)の名です。百済大井宮は枚方市にある百済神社でしょう。大阪府枚方市中宮西之町には、百濟王神社(くだらおうじんじゃ)があります。この辺りは都ヶ丘がと呼ばれています。百済王敬福は、ウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王としてきました。~金華山と百済王敬福


饒速日=台与(豊)=敏達天王=神武天皇であることが、上記を理解していただければわかると思います。~饒速日(ニギハヤヒ)は台与①~稲作   台与は饒速日②~交野市倉治


◎魏志倭人伝では、卑弥呼の後継者は台与と書かれています。しかし古事記、日本書紀には台与は全く登場していません。と思われていました。しかしちゃんと台与のことが記載されていたのです。台与は女性ですが、記紀では台与は男性として記載されていたのです。

◎古事記、日本書紀は歴史書ではありません。藤原不比等が自分の思想(万世一系)を民衆に押し付けるために書いたものです。

漢風諡号の「敏達天皇」は他の代々の天皇と共に淡海三舟によって名付けられたもので

淡海三舟に名付けられた天皇は、すべてウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王、あるいは台与(豊)です。


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、茨木、高槻、枚方、交野です。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>









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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3日前
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古代航路の拠点に鎮座する古社。『日本書紀顕宗天皇紀によると、遣任那使・阿閉事代が神託を受け、対馬のアマテル・ タカミムスビを磐余(現在の奈良県)に、壱岐の月神を歌荒巢田(現在の京都府)に遷座させていることから、対馬・壱岐の祭祀集団(卜部)を中央に移動させる政治的意図があった可能性がある。中国には、太陽はもともと10個あり、旱魃が起きたため羿という英雄が9つを射落としたという神話があるが、阿麻氐留神社にも弓で的を射る神事が伝えられており、その関連が指摘されている[1]


歌荒巢田→桂

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