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観音菩薩と台与(2)~法輪寺

  • tootake
  • 3月22日
  • 読了時間: 5分

更新日:3月23日

第629話 #虚空蔵菩薩 #十三参り #聖徳太子 #台与


前回:観音信仰と台与では、嵐山(京都府京都市)にある法輪寺は、虚空蔵菩薩を本尊としています。知恵と福徳を授かるために多くの参拝者が訪れます。第467話:虚空蔵菩薩は台与!!で書いたように虚空菩薩は台与(豊)です。

嵐山は保津峡・保津川下りの終着地です。亀岡から保津川を下り、様々な物資を運んだことは、第604話:鉱物と邪馬台国(2)~亀岡:錫で述べました。

法輪寺は13参りで有名です。十三参りとは、旧暦の3月13日前後に数え年で13歳になる子どもが、知恵を司る虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)にお参りする行事です。と書きました。


今を去るおよそ1800年前、我が国は倭国とか、邪馬台国とか呼ばれ、西暦300年代漸く大陸の中国や朝鮮との文化交流が盛んになり始めました。その頃既に現在の法輪寺寺域に三光明星尊をお奉りした葛野井宮(かずのいぐう)がありました。秦の始皇帝の子孫、融通王*の一族が産業、芸術の繁栄、安全守護の一族祖神として信仰していました。虚空蔵尊(こくうぞうそん)と深い因縁のあるこの「葛野井宮」を尋ね求めてこの地へ渡来し、彼等伝来の農耕技術を生かした農業をはじめ製糸、染織など中国の工芸を励むようになりました。

彼等中国から移住した一族は秦氏族と呼ばれ又彼等一族の守護繁栄の祖神として崇敬しております「葛野井宮」を中心としてますます発展することを祈り、その名をもとにしてこの広い地域を「葛野かずね」と呼ぶことになりました。


又染織、漆器、彫刻、醸造、酒造など所謂美術工芸に関連した商工業者からも厚く信仰を得ているのも法輪寺虚空蔵尊の前記御本誓や、往古秦氏族の信仰していたことに関連していると思われます。~引用ここまで


このブログでは台与と秦氏が関連が深いことは、すでに書いています。

秦の始皇帝の子孫、弓月君(ゆづきのきみ)は、古代日本で秦氏の祖といわれる渡来人。応神天皇の時代に朝鮮半島から多数の民を率いて渡来したとされ、山城国葛野郡(かどのぐん)太秦を本拠とし、近畿一帯に強い地盤を築いていました。このブログでは、呉の勝としています。第48話:太田市と遺跡 ~呉の勝第271話:徐福伝説と「呉の勝」

第304話:隼人族は呉の勝


ところで、奈良県の斑鳩(いかるが)にも、法輪寺があります。〒636-0101 奈良県生駒郡斑鳩町三井*

*三井の地名は古く、聖徳太子が飛鳥の里より三つの井戸をこの地にお移しになったところから起こったと伝えています。法輪寺の西北、歩いて3分の場所には、聖徳太子が掘られたという国史跡の井戸(史跡 三井)が遺されています。


この奈良県の法輪寺はどうも嘘っぽく感じられるのです。第541話:法隆寺を建てたのは不比等?!~斑鳩町で書いたようにこの地域は聖徳太子ゆかりの法隆寺がある地域です。


兵庫県の太子町では確かに聖徳太子=台与(豊)の痕跡を感じ取ることができます。しかし、奈良県の斑鳩町からは、聖徳太子=台与(豊)の気配が感じとれません。法隆寺は作り物のような気がします。それはどういうことかというと、秦氏の関与が全く感じられないからです。第540話:広隆寺と聖徳太子立像で書いた広隆寺には秦氏との関与を示す資料があります。法隆寺の開基は、推古天皇と聖徳太子とされていますが、どちらも架空の人物です。


嵐山(京都府京都市)にある法輪寺は秦氏と関連は上記に書いてある通りです。奈良県の法輪寺の創建については、日本書紀や法隆寺伽藍縁起并流記資財帳には記載がなく、不明な点が多いのです。奈良県の法輪寺も藤原不比等が、台与=聖徳太子の痕跡と見せかけるために立てたものでしょう。藤原不比等はそこまでやる人物です。出雲神話を信じさせるために、出雲大社を島根県に建設し、熊襲、隼人の伝説を作るために、山城国(京都府)大住の住人を九州に移住させ大隅とさせるといった大技(おおわざ)を繰りだすような人物です。

第304話:隼人族は呉の勝第305話:隼人族は疑似民族集団


斑鳩町には、聖徳太子が造営した宮殿「斑鳩宮」があったとされ、聖徳太子はこの宮に住んでいたと言われています。そして、斑鳩宮の西方には聖徳太子が建立した法隆寺、また尼寺として建てられた中宮寺、聖徳太子が法華経を講じた岡本宮の跡地に建立された法起寺など、太子ゆかりの寺院がとってつけたようにあります。そして今回の法輪寺。

法隆寺周辺は、不比等の作った聖徳太子のテーマパークです。


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<蛇足の追記>


*斑鳩(いかるが)は伊加賀(いかが:大阪府枚方市)からの連想でつけた地名でしょう。

 イカ(烏賊=伊加)は中臣烏賊津(なかとみ・いかつ)=スサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)です。

奈良時代に入って元明天皇の和銅6年、堂塔を建てたのは行基です。行基は、台与(豊)と同じように大阪南部に多くの農業用のため池をつくりました。~大阪と邪馬台国:美木多(堺市南区)


※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 


<目次>





 
 
 

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 22
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 22
Rated 5 out of 5 stars.

https://www.naraliving.com/magazine/details41.html


鶴林寺縁起には、蘇我氏と物部氏の争いから逃れていた高麗(こま)の僧・恵便善信尼 - Wikipedia法師のために聖徳太子が秦河勝に命じて、崇峻天皇2年(589)この地に3間4面の堂舎を建立させたことに鶴林寺の歴史がはじまると記されている。その後、養老2年(718年)に七堂伽藍が整備され、天永3年(1112)に寺号が「鶴林寺」に改称された。中世に最盛期を迎え、寺坊は30坊以上、寺領2万5千石にもなったという。

喜んだ天皇は播磨国の水田100町を与えた。そして聖徳太子はこの地を斑鳩寺に納めたと記されています。姫路の西の太子町には「斑鳩寺(はんきゅうじ)」という太子ゆかりのお寺が残っています。加古川流域には聖徳太子が造らせたと伝わる最古の用水路「五箇井」があり、基準位置に使ったという「太子岩」という岩礁も残されています。

 善信尼 - Wikipedia

日本に仏教が伝来したのは一般的に538年頃と言われていますが、その前後の時代から既に個々には伝わっていたとも言われます。この頃、播磨の国にも仏教関連の文化が伝わっていて、大和朝廷とも交流があった事がうかがえます。

https://reki4.com/00273.html

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
Mar 21
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台与シリーズ>

hidemaru3375.com/post/天鈿売命(うずめ)は台与(豊)

https://www.hidemaru3375.com/post/かぐや姫は、台与(とよ)

https://www.hidemaru3375.com/post/磐井の乱と台与

https://www.hidemaru3375.com/post/豊受姫(豊受大神)は崇神天皇

https://www.hidemaru3375.com/post/火明命は饒速日なのか??

https://www.hidemaru3375.com/post/豊鍬入姫命-日光と男体山・女峰山

hidemaru3375.com/post/台与と秦氏 敏達天皇は台与(豊) 

衣通姫(そとおりひめ)は台与(豊) 雄略天皇は台与(豊)!

孝昭天皇は台与:日原は目原  飯豊王女は台与(トヨ)なのか?

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(2)大原足尼命はトヨ    大宜都比売(おおげつひめ)は台与 

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