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鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)

第546話 #鸕野讚良皇女 #讃良郡 #台与(豊) #邪馬台国


讃良郡(さららぐん)と聞いても、ピンときませんが、讃良郡とは大阪府寝屋川市です。正確には四条畷市の全域、大東市の大部分、寝屋川市の一部:萱島(かやしま)、秦町、豊野町、太秦桜が丘、太秦高塚町などです。


讃良郡に野(うの)という名前の邑があり、そこで“さらら”は育てられました。

“さらら”とは、広い野原(廣野)という意味です。“さらら”とは、鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)のことです。


“さらら”は娑羅羅馬飼造(ささらのうまかい)に養育されたと考えられています。娑羅羅馬飼造とは馬を飼育する一族です。四条畷市には大規模な遺跡があります。讃良郡条里遺跡(蔀屋(しとみや)北遺跡)です。縄文時代から鎌倉時代まで続くこの遺跡の調査報告書は、「ここでは、土坑に埋納された馬の全身骨格が出土したほか、馬具も含まれており、日本書紀に登場する「沙羅羅馬飼」「菟野馬飼」に関係する馬飼集団がいたと想定されています。~第220話:四條畷と馬匹文化 第492話:邪馬台国には馬がいた!~生駒 


当時の馬は農耕に使わず、戦闘にも使わず、豪族の金のかかる趣味のようでした。高級外車のようなものです。聖徳太子も黒駒という愛馬を持っていたようです。聖徳太子伝暦に見られる聖徳太子と甲斐の黒駒に関わる伝承は山梨県や奈良県に残されています。聖徳太子は台与です。~広隆寺と聖徳太子立像

推古天皇*が、「馬ならば 日向(ひむか)の駒(こま:馬) ・・・」と蘇我馬子に歌っています。日向は大阪府守口市の地名です。日向も讃良郡です。~日向は大阪府守口市


“さらら”こと鸕野讚良皇女は生駒山山麓に広がる牧場(まきば)では育ちました。広々した野原ですくすくと育ち、“さらら”は活発な女の子になりました。馬にも乗れたでしょうし、馬飼いの人々、百済渡来人(=秦氏)など様々な人々に囲まれて、いろいろなことを学び、広い視野を持つ聡明な女性に育ったとされています。~第1章 鸕野讚良皇女(うののさららひめみこ)誕生 | 方丈号 辿辿記より引用


これまでこのブログで書いてきた讃良郡に関する記事は結構あります。

・寝屋川市

・守口市

・四条畷市


上記より、鸕野讚良皇女は台与(豊)ではないでしょうか。牧場(まきば)は私が邪馬台国とする御牧国(ミマキ)のことだとおもわれます。しかし、今回ばかりは、簡単に鸕野讚良皇女=台与(豊)とすることはできません。


なぜなら鸕野讚良皇女は、その後、即位して持統天皇になるからです。

壬申の乱では鸕野讃良皇女が大海人皇子に協力したとするのが通説で、彼女こそが乱の首謀者であるという説もあります。壬申の乱は日本史上の重大事件ですから、多くの学者研究しています。鸕野讚良皇女は台与(豊)などと言ったら大変なことになります。


持統天皇の和風諡号は2つあり、続日本紀の大宝3年(703年)の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、日本書紀の冒頭に記された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)があります。

私は大倭(おおやまと)は、枚方・高槻、高天原は交野と思っています。~第430話:倭(やまと)は高槻市、葛城は交野市


漢風諡号「持統天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたということです。

・淡海三舟に名付けられた天皇は、すべてウツシコオ(内色許男命)スサノオ(津田の王、あるいは台与(豊)です。



※これまでの記事はこちらです。


※このブログは、御牧国(ミマキ国)が邪馬台国であるという前提の上で書いています。

・ミマキ国は、守口、寝屋川、茨木、高槻、枚方、交野です。

記紀の登場人物をスサノオ(津田の王ウツシコオ(内色許男命)、卑弥呼、台与(豊)に当てはめる作業をしているのです。

・今までのところ矛盾なくここまて書き続けています。矛盾している箇所があれば、その矛盾点をヒントとして次の記事としています。 

<目次>





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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
2日前
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(弓遵の戦死を受けて)王頎が帯方郡太守に着任した。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3日前
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3日前
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そこで思金神が鳴女という名の雉を地上に遣わして、天若日子の様子を伺  わせました。鳴女が天若日子を見つけて「お役目はどうなったのですか?」  と聞くと、天若日子は後ろめたいので、彼女を射殺してしまいます。そし  て、その鳴女を射た矢は彼女を貫通して、天まで飛んできました。  その矢を高木神が拾いました。見ると自分が天若日子に渡した矢で血が付  いています。そこで高木神が「天若日子がもし正しい心を持っていて、こ  れは悪い神を射た矢がここに飛んできたのなら、この矢、天若日子に当た  るな。しかし天若日子が邪心を持っているなら、この矢に禍れ」と言って  矢を投げ返すと、その矢は天若日子の胸を射抜きました。


反矢(カエシヤ)、畏(オソ)るべし


「天に唾する」みたいな意味じゃないかと個人的に想像。ようは不正や不忠を働くと、手痛いしっぺ返しが来るよ、という「諺(ことわざ)」でしょう。そういう言葉が当時あって、それに引っかけたのだと思います。

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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3日前
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秀丸 遠嶽
秀丸 遠嶽
3日前
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台与シリーズ>

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